脳梗塞の再発

 平成22年10月30日朝、私は脳梗塞の再発に遭い愕然としました。
 朝、トイレに行こうとベットから体を外に出した。その時既に違和感があって立てなかった。
 ”お母さん”、と続き間の妻を呼んだ。しかし、声にならない呻きであった。
 只ならる気配に直面した妻は、順次に、脳梗塞に対応する行動があった。長い間脳梗塞の後遺症に接触してきた経験が身につけた身内の技がありました。
 私を支え、別棟に住んでいる長男に連絡をし、たまたま泊り来ていた四男が病院勤務ですから、手際良く救急車の手配をし、入院の準備をしました。
 救急車の職員は親切に受け入れ先の病院と連絡をとり、妻と相談しましたが、その際、"近い病院で受け入れてくる処なら早いに越したことはない"、という職員の指導に直に従ず、少し遠くなるが私の今掛かっている聖路加病院に診断を四男と共に希望したところ、隊長の即座な判断で、妻の携帯した病院の診察券を見ながら私の受け入れを交渉して下さいました。”高速で行けば何とかなる …”、一同感謝・感謝。
 孫のかんなは1年生になって良く事情を把握して妻と共に救急車に乗って私を慰めて呉れました。

 当時は私の行動は全て不具合でした。気力・思考力等の減退で、”だた生きている”、と言える状態でした。
 特に、”歩行”には困っていました。歩行不足ですから気が滅入って、当然、何か悪い事起りそうな予感がありました。従って、私の最後頼みとして、妻が通っていた整体治療と自宅でのマッサージを受けました。然し、マッサージは当初はその効果に、”見捨てないで下さい”、と懇願した程体に反応がありましたが、その効果は永きに続きませんでした。整体治療は治療を受けて2回目の時腰に痛みを感じて、糖尿病で診察を受けていた医師が、”解明されていない何か原因の疾患を医学的に対応する事が必要”、との事で、聖路加病院の整形外科の先生を紹介して下さいました。

 私は、即刻、その勧めを有難い指導として病院に行きました。特に、いつもお世話になっている、”聖路加病院”、であったことが安心でした。
 その担当医師は初見で分かっていたと思いますが、レントゲン写真を見て、”確認のためMRAの検査を来週受けて下さい”、仰りました。 そして先生は私の状態の説明を下さいました。私は病院の廊下に展示されているパンフレットから病名・私の疾患の詳細を知りました。

パンフレットで見つけた病名は、”腰部脊柱管狭窄症”でした。
 更に、症状・原因・病態の内容が記述されていました。内容は以下の通りです。

 症状;この病気では長い距離を続けて歩くことができません。もっとも特徴的な症状は、歩行と休息をくりかえす間欠跪行です。腰部脊柱管狭窄症では腰痛あまり強くなく、安静にしている時にはほとんど症状はありませんが、背筋を伸ばして立っていたり歩いたりすると、ふとももや膝からしびれや痛みが出て歩きづらくなります。しかし、少し前かがみになったり、腰かけたりするとしびや痛みは軽減されます。進行すると、下肢の力が落ちたり、肛門周囲のほてりや尿の漏れることもあります。

 原因;加齢、労働、あるいは背骨の病気による影響で変形した椎間板と、椎間関節から突出した骨などにより、神経が圧迫されます。

 病態;背柱管は背骨、椎間板、関節、靭帯などで囲まれた背髄の神経が通るトンネルです。年をとると背骨が変形したり、椎間板が
張らんだり、靭帯が厚くなって神経の通る脊柱管を狭くして(峡窄)、それによって神経が手術を受け、神経の血流が低下して背柱狭窄症が発症します。椎間板ヘルニアに比べ中高年に発症することが多いようです。

 診断;単純X線(レントゲン)写真である程度は推測できますが、より詳しく診断するためにはMRIや背髄造影などの検査が必要となります。下肢の動脈がつまって血行障害を生じた時にも似たような症状となることがありますので注意が必要です。

 治療;神経の圧迫は腰をまっすぐに伸ばして立つと強くなり、前かかみになるとやわらぎますので歩くときには一本杖をついたり、シルバーカーを押して腰を少しかがめるようにしましょう。そうすると楽に歩けます。また、自転車での移動も痛みが起こりにく、良い運動になります。
 保存的治療としてはリハビリテーション、コルセット、神経ブロックや脊髄の神経の血行を良くする薬で症状が改善する事もあります。然し、歩行障害が進行し日常生活に支障が出てくる場合には手術で神経の圧迫を取り除くこともあります。

 私には思いつく症状が幾多ありました。

 尚、その頃私は顧問としてかかって来た高校のテニス部の卒業生の訪問を受けました。
大会で優勝経験ある優秀な運動部の仲間ですから話題は、かっての栄光の追憶から現在の健康に亘り、やがて私の健康が俎上に載りました。私の病気は皆さん承知ですから極最近の調子を説明する事になりました。
 当然、歩行が当面の分かり易い主題になりました。
 私のお話が終わる前に、主婦の方から、自分のご子息が、運動の遣り過ぎで発症した、”腰部脊柱管狭窄症”、の症状から本人・周囲の苦労までいろいろ語りました。母親の苦労談は、皆さんは性格を充分分かっている仲間ですから、流石に実感を導入し心の籠もったお話で説得感がありました。その上、他の仲間は親戚.で同じ疾患に悩んでいた方も同様で、高齢者の悩み言及しておりました。特に、詳細な条項は後にメールで送って貰いました。

 私はこの疾患が以外に多い事を知りました。その上、私が如何に無知であったことを恥じました。
 そして、私の体調がマッサージや整体治療の他力本願では回復不可能であると実感しました。そして、リアビリは医学的見地で導入された見識で裏打ちのある確実理論下に実地される事が不可欠であると思っています。
 単細胞の私は、結局、回復リアビリに12年もかかって来たのに、実際はこの疾患について正確な知織も経験が無く、言わば、場合によっては噂と言える情報に頼っていました。専門的の対応の経験・実践もなく、小耳に収得した情報に依存して来ました。
 従って、
脳疾患は脳の内部に直接に届くものは、注射・薬でなく、全てリアビリのみ、と言わると其の侭率直に信じていました。
 ですから、毎日のように公園を経由してリアビリとして歩行間欠跪行を続けたのです。
 今日は休憩がどの始点であるか、何回か、何処まで行ったか、何分掛ったの時間の設定等を備忘録に記入して、個々の結果を比較し一喜一憂.でした。

 しかし、その設定は頗る失敗しました。
 今日より明日と回復を祈り実践した歩行状態は後退しました。

 一般的に、”100里を歩くとき、99里をもって半道とすべし”、と言う言葉がありますが、私はリワビリは、”100里を歩くとき1里をもって半道とするべし”、と言うこと、つまり、リハビリは初めの行動の準備とリムスを構築に時間かかるので開始後は案外継続が楽になる、と言う事を日常の行動で経験的に実感していますので、これも毎日継続すればそのうち効果があると思っていました。しかし、これは白筋が主体である私の体の特徴かも知れません。何しろ短距離は小学生までてその後はマラソンを選択した私ですから…。従って、私の浅知恵と思う方を多いと思いますが、私には実践による貴重な判断と信じておりますが、医学的展望のホローがない現状では打開出来ない事を残念に思っています。   (その実践の契機は後に記述します。)
つまり、体のある自立神経の支配下にない活動は良い刺激を吸収するすることは出来ません。つまり、体は全て生理的関連のある連結でつがっています。今は1年前他界しておりますが、私の同僚で優秀な体育教官が生徒を集め、ご本人は正立の姿勢で、”××君、おまえの態度は芯(心)が通っている。みんなも見習うてくれ。”、と訓示をしたときの情景を思い出します。
氏の言った言葉は常に自分の体では自立神経の主体的行動では事故は起こらない、つまり、サボッテいいがけんな状態では怪我が多いが、真面目に集中いている時には事故がない、芯のある体は、”自立神経の支配下”、の下にあることを言っていると思えるように理解しています。そして、筋肉には羞恥がないと言ってました。
氏の言葉は
指導の際つくづく各個人の体調をよく読んで、氏の指導には生涯で事故は皆無でした。
リハビリが良い効果である為には主体的な設定が必要であります。

  勿論、私は手術を希望しました。
 処が手術日が決まった日は、11月4日検査入院、12月1日手術となりました。
 即座に手術の希望いましたが、手術の希望者多くいるで日程変更は難しいので、已もう得ないので手術を待つことになりました。
 今から考えと、即座に 手術を行いが出来たらなら、私の脳梗塞の再発は無かった思われます。
 それだけ私の脳の中には紊乱がありました。
 そして、私は脳梗塞を再発しました。

 然し、この再発の原因は、この疾患に対する対処の蹉跌(さてつ)によるものであることは明らかなことと思っています。

 そのス蹉跌を検証する事が私の任務と考えています。
 その前提として脳梗塞の再発の前後の様子を、備忘録と共に看過します。

 それは、脳梗塞の再発のまじかに私の恐れていた状況が現実に出現したことでした。
 今なら言いますが、私は手術が速やかに出来ましたら、そして,正しいリハビリを行いっていたら、脳梗塞の再発も回避出来たと思っています。これで私は、有機的リズムで構築された体内の刺激を主体的に生の構造が正しく実践されることが真のリハビリと信じおりますから…。

 従来、糖尿病がある私は長い間血糖値が安定ない事に困っていましたが、さしたなる後遺症がなく特に対応なく過ごして来ましたので、それが脳梗塞の原因あることは分かりませんでした。然し、脳梗塞の発症後入院以降食事管理で殆ど安定しましたので安心したところ、退院すると、管理が甘くなり、結局、元に戻り高血糖値が続くことなり、今度は目に糖尿病性黄班浮腫と言う異常が出て、内科に入院しました。

 内科の医師は公営病院ですから一定期間で交代するので、長い間診て呉れない弊害がありました。ところが今回の担当医師は糖尿病の専門と言う事で検査入院をしました。ところが、残念ながら、その医師の対応が拙さに院長宛てに苦情文を送りました。

 私には医師に逆らうことは初めの事でした。
 即座に返答がありました。
 回答を呉れた方は副院長でお世話になってる脳外科の担当医師でした。元々失語症で喋ることが難しい事でしたので、まして電話の会話ですから私は緊張で何は何だく分かりせんでした。

 次の診察日では、

”言語は随分良くなったね”、と言われたことが救いであり、祈りでした。

 私は翌日退院をしました。同時に近くの書店で糖尿病の専門医師の記述した本を購入し、妻に頼み有楽町にあるその医師の医院に電話しました。

 医院は私の依頼を受け入れましたので、私は即座に予約を申込し、翌日診察を受けました。
 その医院の治療を受けてから血糖値・A1Cは見る見るうちに快方に進みました。視界も遠近感覚が戻り良い事に感謝しました。

 勿論、インシュリンの投与が合ったと思います。眼球の症状も良くなりました。A1C が6.0まて下がった時多少不安があったことがありました。私の体にはA1Cの設定が無理があること感じていましたが、医師の対応にお任せているので問題はないと思っていました
 その後の経過は私の備忘録に書いています。

 平成21年11月5日 木曜日
 AGE医院。A1Cが5.5 になっていた。私が糖尿病と言われてから考えると驚異的な数値だ。これによる恩恵は当然受けていると思いますが、しかし失ったものもも大きい。
 私の判断では矢張り、インスリニンが私の体に合わない要素があるとしか考えれられない。
 前の診察の時、担当医師は血液検査の結果を診て、「糖尿病は順調に良くなっている。優等生です。内科的は全く問題はありません。」と言われましので、如何も歩くにも不自由をしているし、文章を書く事や整理には全く意欲が出てこないを申し上げましたが、それに良く効く薬がると出して呉れた時の血糖値には何も解放には効果なかった様に感じています。

 平成21年8月7日 金曜日
 今日も一歩も外に出なかった。変っているのは、インスリンの打つ量だけで、今日は朝34、夜は24単位になった。この遣り方には疑問があるが、専門医の指示である以上、今のところ私には出来る事がない。

 平成21年8月10日 月曜日
 相変わらず回復の兆候は眼得ない。今日は大会の申込み〆ぎり日で、結構、手紙が着ているが、それを整理する気力が無い。困った。
 PCの調子が悪い。特に、マウスが動かない。時間ばかり掛かって内容は進展しない。苛々する。
 3日には北海道に行くことになっているが、全く未透視が全く無い。
 インスリンの量は毎日増加して朝40、夕30単位になった。
 明日、診察日であるが不安だ

 平成21年8月7日 金曜日
 今日も一歩も外に出なかった。変っているのは、インスリンの打つ量だけで、今日は朝34、夜は24単位になった。この遣り方には疑問があるが、専門医の指示である以上、今のところ私には出来る事がない。

 平成21年8月10日 月曜日
 相変わらず回復の兆候は眼得ない。今日は大会の申込み〆ぎり日で、結構、手紙が着ているが、それを整理する気力が無い。困った。
 PCの調子が悪い。特に、マウスが動かない。時間ばかり掛かって内容は進展しない。苛々する。
 3日には北海道に行くことになっているが、全く未透視が全く無い。
 インスリンの量は毎日増加して朝40、夕30単位になった。
 明日、診察日であるが不安だ

 成平1年8月11日 火曜日
 糖尿病医院に行った。インスリンの量は問題は無いと言うが、今の症状が分ってるいるか大いに疑問を抱いている。糖尿病が多くの後遺症を齎す事は一般的には容認していても具体的な症状には担当部署が違うので、結局当事者でないと理解されない事になる。
 今回の問題は飲み薬を全てインスリンで対応する試みの途中の出来ものと思う。
 A1Cが6.6になったので、一歩進んで治療を行ったが私の体は相当ガタが来ていたので、予想通りには行かなかったという事だ。
 何しろ、何もする気概がない。大会の申込書が在っても手を付ける気力が無い。
困った。

 その後、指示で前の日血糖値が上がって場合は打つインスリンの量は増加する事になりました。

 その結果夕食前のインスリンは90単位までになりました。私は体調が余りにも優れないので、思いきって何時もお世話になっている聖路加病院の当日外来に来ました。

 平成21年9月15日 水曜日
 聖路加病院内科当日診療.中川医師。
 血液検査、心電図、胸部レントゲン、MRA。 

 平成21年11月7日 土曜日
 朝の血糖値は48で異状に低かった。私のインスリンの打ち方に間違いがあったか不安を感じた。従って、インスリンは朝は打たなかった。終日、体育協会に提出する秋の大会の報告書を作成に専念した。また、体調はあまり良くないのでプールに行く気にならなかった。
 今日は運動をしないが、血糖値の最高値は160であるので、間もなく低血糖の症状が出てきました。その頃体調が悪く歩行に苦労しました。聖路加病院で生理内科の診察も妻の押して貰って車椅子で出かけると状態でぱ妻もの持病パーキンソン病があり、病気を持ってる妻には過剰な負担でありました。時々来る孫と公園に行く事さえ出来ない状態になり、慌てて、聖路加病院当日診療に行き診断を受けました。
 女性の医師は親切に対応して呉れました。余裕のある対応で私より視線を下におき柔和な表情でした。
 失語症で会話の困難な私の説明聞いて下さり生理内科の担当医師と連絡を密にして、MARの撮影等疾患に拘る診断を行って下さいました。
 そして、血液検査の結果を待っていました時先生が検査室の主任と私を呼びに来られ、血糖値が少ないで緊急にインスリン投与に対する対策を行いますからこちら来て下さいと言いことで、近くの診査室に動向し血糖値を測りましたが、昼食を食べた直後でしたので、血糖値は平常値で安心しましたが、診察室で私の糖尿病の専門医師に直接電話を掛け血糖値の監理を指摘しました。高名な医師に対して…。
 私ははらはらして聞いていました。患者を念頭におられる対応に感動しました。
 お陰様で現在は糖尿病は安定してます。 

 血糖値は 5.9 であった。
 その間、私は厳しいリアビリ以外ない…と覚悟しました。

 その間に聖路加病院での神経科で担当医師は私が箸が使えないと言ったので、また、MRAで現在の脳の診断をして下され、「脳には異常はないと」判断されました。
  また、聖路加病院での中川朋子医師による胃カメラに診断は担当者の言われる内容から思うと、差異たる問題はないようだ。

 私は糖尿病の担当医師に2人おられるので若い先生に思い切って、「インスリンは他の人と同じですか」、
 「人に適合出来るよう効く時間等調整してある」
 当然、人に適応するには個人差が在るのではないかと私は考えている。

 私の体にシミのように吹き出物のが所々出てきて間もなく消えて行く様子は、以前、新しい健康食品を始めた時によく出会う症状に良く似ている
 それは体の合わない因子の葛藤の経過と理解している。
 恐らく、インスリンでも体調に合わない場合もあり得るものとの思っています。 

  平成21年11月6日 金曜日
 朝の血糖値が気になった。92で矢張り下がっていた。昨日と同じにプールに行った。
 帰りにカルピスが飲みたいのでB1に立ち寄りカルピスを飲んだ。
 今日は疲労を感じて昼寝をした。
 夕食前の血糖値があまり低い 72 でビックリした。
 夜はパソコンで日誌を書いていたが、途中から何かなんだく分からない状態なり、戸惑っている時妻が来て、私にカルピスを飲ませて呉れた。
 其の侭、やっと寝た


  聖路加病院内科当日診療に行った。

 しかし、今後の医師に私のことを、先の先生から、”私からもよく伝いますから安心しております”、と伝言がありました。
 次の医師は大分厳しい方でした。以前の胃カメラの検査の結果を説明後即座に、”あなたは今肺炎を罹っています。入院しますか。”、と言われ一寸だじろくことありました。それは返答する間もない事で、私は現状を受け入れで現在の環境を回復を祈念し、入院をお願いしました。

 入院が決まると結構多い他の医師が私の診て呉れて医師同志で打ち合わ等で忙しい状態でした。脳の梗塞の大きさには皆さま一応に関心があったようで私の訊き直す医師もありました。

 入院ではこの全て病院の方針が良く行きわっていて安心でした。

 平成21年11月26日 木曜日 聖路加病院退院。

 肺炎の症状は落くようで先ず安心ですが、私の体調は相変わらず不調でした。

 今当時の備忘録を見れば良く分かります。備忘録によると、毎日、”脚の痛み”,について記入がありました。
 困ったことに夜良く眠れない事で、眠るまで数時間を要うしたことでした。床に入ると其の侭3時間&4時間も起きて状態で辛い事でした。
 これも妻が知り合いから頂いた貴重な情報で不具合から退出するが出来ました。

 平成22年3月8日 月曜日
プロ酵素を購入した。飲み始めた。

 このプロ酵素は、初めに飲むん時朝の起き掛けの聡明感は、現在の私では表明できない、文字通り、”貴重”、と言いう言葉がありませんでした。
 ぐっリ寝た後は、同日が曇り空であった事に依ると思いますが、夕方まで眠ると錯覚を覚えた程でした。

 私には福音でした。

 妻の知り合いの人が末期癌に悩んでいた時、その”酵素”の服用で回復に向かっていると言いうこと訊いた事があります。実際の経験者は実感を以てその効果を語ることに迷いないと確信しています。  

 平成22年9月2日 木曜日
 揉み治療(マッサーチ)を受けた。その効果は一回では分からないが、何回か受けていればそのうち効果が出てくると思う。何しろ、現在の状態では何かしないと後退のみである。  

 平成22年9月8日 水曜日
 高円寺、整体治療。

 平成22年9月10日 金曜日
 マッサージに来て貰った。受けた後が具合が良い。此の侭続ければ効果が期待できる様だ。

 平成22年9月16日 木曜日
 朝から整体治療の結果左腰に痛みが起こり、ぎっこリ腰になり歩行に苦労した。
 糖尿病医院。A1c;6.9 足だけは無くて体全体に疲労が酷く横にならざるをいない状態であった。

 平成22年9月22日 水曜日
 シニア大会のドローをアップしたが、注意事項、当日の進行企画等の記述に意外に時間が掛かったので、男子団体戦の結果が殆ど進まなかった。それに椅子に座っている時間が長いと脚の痛みに耐えられない苦痛が出る。
 それが限界だ。

 平成22年9月24日 金曜日
 マッサージ。受けて日は体が軽くなった。腰の動きがずっと移動距離が広くなった。怖い位だ。 

 平成22年10月15日 金曜日
 脚の痛みは厳しい。椅子に座ってPCを遣っていると脚が先までビリビリと痛みが伝わって来る。今日はマッサージの先生が来て呉れたので、体調は総じて大部楽になったが、脚に痛めは変わらない。

 平成22年9月25日 土曜日
 マッサージの反動で歩行に支障を感じた。明日の大会に行くことに不安が起こった。

 平成22年10月21日 木曜日
 マッサージ。相変わらず体調の減退が顕著だ。

 平成22年10月22日 金曜日
 聖路加病院整形外科。MARで腰の内部を調べた所大変な事が判明した。脊髄の一部がくびれていて「腰部脊柱管狭窄症」という病名で、これでは当然、歩行障害になることが証明された。

 医師から言われて見たパンフレットの説明によると、歩行困難の状況や痛みの場所等私の実感と合う。問題は直る可能性があるか否かだ。説明によると手術しかないようだ。
 手術はいい医師に当たれば簡単に直るものもまずい人に中るとどんでもないことになる。
 私はそうゆう怖い経験が在りすぎる。
 具体的に言いますが、私が18歳の頃,慢性副鼻腔炎・鼻中隔彎曲症を患ったことがありました。近所の医院で治療を受けましたが、回復はなく、20歳に隣り市の総合病院の耳鼻科が良い、特に医院長が良いと評判を聞いてその病院に行き間もなく手術を受けました。
 しかし、手術の結果は酷いものてした。症状が重い患者は個人の1等室に入り医院長の執刀を受けました。私のようにコネも金も団体部屋の患者は若い経験不足の医師が担当でした。手術は1週間毎に2回ありました。そして、2週間後彼は手術後の経過が良くなり退院しましたが、症状が軽いだった私は手術後の経過が悪く再手術になりました。2回同じ手術でしたが、良くならないが一様治療が終わったと言い事で退院しました。しかし、通院で医院長がまた手術をいました。その時は初めの医師が同席いて手術の経過を説明しておりましたが、私は半麻酔ですからハッキリ聴いていませんが、”これは取ったの。拙いなー”、と医院長の担当医師の会話が記憶に残っています。当時は意味が分かりせんでしたが、後に大変なダメージであることを知りました。つまり、一生の課せになったのです。
 その後、医院長は病院を辞め自宅で開業したので私は医院長に診て貰いましたが、これとい言った回復がない状態で経過しました。
 その後、転居しましたが、合いからず他の医院を.訪問しましたが、初手術から約10余年後、知れ会いの方がよい耳鼻科の先生を紹介されました。元は慶応大学の教授で現在は高齢で一線をさり名誉教授ですが、学会のない時期に要求に答えるために診察いることで極々少人数の患者がいました。
 失礼ながら医師の評価は医師でなく患者のほうが実態を把握していると思っています。いと目で先生の人格の立派さに感動しました。当然、先生のご子息で同じ大学の教授を助士として手術を受けました。日本1のスタッフですから安心でしたが、今まで経験のない厳しい手術で口の中を血液が通る音の駆動を感じました。
 手術は秋と春に分けて実施され完全に成功しました。退院にあたり先生は自由が丘駅の本屋で先生の図書を買ってくるよう仰ました。
 それは私に説明に使用する鼻の内部の様子が載ってる本でありました。
 先生は図書によって説明をして下さいました。
 ”あなたの鼻は骨が固いすぎいて手術道具の操作が難しい。刃も負ける程固い。その結果、骨を切るより反対の肉を切って鼻の通り道を広くした。切った部分はちゅうこうがいで、言わば体の障子板が無くなったのに等しい。”、仰りました。
 ですから、最近は大部収まっていますが、冬はマスクが必需品です。特に、畏まった式典でも咳を止める事が出来ません。涙線を刺激して鼻腔に涙の湿度で対応しても、一時は鼻腔内を通るが数分を持つだけで咳が出て周囲の顰蹙くを買うことりなります。顰蹙を以って一生生きていくことは私の科せです。尚、その事は現在ある嚥下症もその遠因であると思っています。
 それにしもその先生の凄さは忘れない迫力がありました。

 しかし、今回の手術受けなければならない。なるべく早く医師に相談して手術を受けたい。  

 平成22年10月23日 土曜日
 体育協会に提出する秋の大会の報告書が漸く出来上がった。
 しかし、既に来年度のコート使用計画の提出日が迫っている。整形外科の医師に出す相談の手紙を書く時間がない。よく考えると最初の診察でレントゲンを見たときに医師は、パンフレットに書いてあるように「単純S線(レントゲン)写真である程度は推測できますが、より詳しく診断するためにはMRIや脊髄造影などの検査が必要となります。…」という実態の見通しを、当然、もっていたと思われるが、それを後になってから感じたのは浅ましい患者判断だった。

 今考えるれば、即座に医師に具体的な治療・例えば手術等を触れてくれば救いになったものを、残念です。

 平成22年10月25日 月曜日
 朝直接伊藤医師に頼んで診察を受け、手術が決まった。11月4日検査入院、12月1日手術。
 今日は脚の痛みが益々酷く病院内は照代の押す椅子車にのって移動した。大分疲れたようだった。この状態では手術日までもつが不安だ。

 手術は無事に終わった。伊藤先生の熱意と技術、並びに紹介下さった医師に感謝します。

 平成22年12月13日 月曜日
 昨日、退院した。10月30日朝、脳梗塞の再発に救急車で聖路加病院に入院した。

 入院では介護保険では介護度2級でしたが、現在は要支援です。病院では車椅子でリハビリ室に行く時、私は歩行が出来ることに不安を感じていました。それは初めの入院と同様でしたので恐らく歩行に耐えるまで回復すると祈っていました。
 実際、去年3.11の震災の時聖ルカ病院で往診を受けていました。帰るのタクシーが見つからないので、休みながら駅の通り歩いて行きました。しかし、其処でも適当な交通手段がなく病院に帰り一晩病院にお世話になりました。当然翌日も駅まで歩いて行きました。
 病院を出る時婦長さん・看護婦さんが送って頂きました。私は回復を実感しました。
テニスの春季大会・秋季大会も役員のホローを頂き無事終了できましたが、選手の集合写真では私は役目から中心にしゃんでいますが、一目で障害者と判別できる格好です。しかし、この写真以外のドロー・入賞記念等全てのHP上の内容は私の担当ですから、その点で見れは回復を納得できます。

 しかし、障害者の行動はそれ自体、鳥瞰図から見れは凹凸の厳しい不安定なものと理解しております。

大雑多に脳梗塞の再発の経過を反省ましたが、患者の一方的な記述には同意出来ないのは、あたりまえだと思いますが、患者の切迫感は理解して下さい。多くは私の我儘です。独断的に考え、自分の事を親身に憂える方の好意を無視しているかのように振舞ます。これは悪意でないのです。人は孤独は、究極として、自分の最も感謝すべき近い人に怒りの対象とすることを、私は教育会でも病気患者でも、対峙してきました。この情景はアラビアン・ナイトの”漁師と魔物”で見ることが出来ます。屈折した心理の下ではいろいろな現象が遭われある。
 依って、患者、障害者にはその積りで設定下さい。勿論、私の今回の記述も同じ範疇に在いります。 

 なお、私にとっては脳梗塞の再発は、具体的には、失語症の再発です。
 私はこの文章を書くことを決意してから約1年になります。従って、文章自体その時の体調・環境等に左右せれる事とは避けて通りません。その結果、文章の構成は支離滅裂で、文章の段落に問題があり、内容に一貫性がありません。私は以前何回も言いましたが、文章を書く事は自信で発音して   可能である事が必要条件だと思っています。それが音読&黙読に変わず…。単語は形状から発音なく記述可能な場合見られが、その存在感に実感がないようです。 何しろ語彙は少ない。

 ですから、記述の心理状態を反映している点は本当の姿を見る心境です。
 
依って、今ある私の全て機能を使用して推敲して行くたい。

聖路加病院聖ルカ像 前にて妻&カンナ

退院1年後診察日

                                                                   12.2.23. 

 歳月は人を待たない問われ通り私の退院から約2年が経過しました。回復が進んでいるとは思いますが、当事者は毎日苛々して自分の運命を感じております。「もし…」、は禁句ですが、小人の私は、脳尿病の管理ミスが再発の原因として、関係者の今後の対処を希求しますが、全て疾患の内容程度差は上下あり、回復程度等自己診断には納得ができない場合あります。

 つまり、病気によるダメージの受け取り方も俟ち俟ちです。加齢と再発で私には死語になっていますが、”社会復帰”が究極の目的であった初期から相当後退いた状態です。

 先日、高校生の演劇部の同窓会があり、私にも連絡があり、幹事の方が迎えに来ました。永い間、連絡不遜であった私は出席者の顔を全ては記憶にありませんでした。

年齢は60代にらる方々でどなたにも特有な生活なリズムがありました。頼もしい主役の登場で私の立場を自覚しました。日本式椅子(炬燵式)に座るとき・立つ際に介護の関係者が手を足して呉れ・実際に声を掛けて指導して呉れました。

 銘々の発言では、肉親が癌等疾患で苦労しておらる方の銘々の会話には、実感があり貴重の経験であり、教訓でありした。

 ですから、その集会の記念写真を同封の手紙を頂き、その中にある文章に衝撃を受けました。

 その一文を掲示します。

 その後手紙が来ました。その一部を掲示します。

                                                           
  私が言及する余地はありません。

  その心境を斟酌して下さい。

                                                         12.5.15.