日時 : 2006年2月7日 5:23

 私の所にカーボンコピーで7名の宛先で次のようなのメールが来ました。

件名 : ご挨拶

こんにちは、だいぶご無沙汰してしまいましたが、お元気でしょうか。
この度、東京大学において博士号を取得いたしました。
聴き取りをさせていただいてから、本当に長い年月がたってしまい、申し訳ありませんでしたが、やっと書きおわすことが出来て、ほっとしております。
聞かせていただいたお話は、本当に貴重で、多くの箇所で引用させていただきました。ご協力に、改めて、御礼申し上げます。

△△様のお計らいで、論文を片マヒ自立研究会で回覧していただけるとのこと、嬉しくもあり、少し怖い思いもあります。
文章もこなれておらず、皆様から教えていただいた論点の、一部しか提示できなかったと思いますが、今後も更に考えていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。感想などお聞かせねがえれば、存外の喜びです。

それでは、日本も寒いと思いますので、どうぞお体に気をつけてください。

○○ ○○子
コロンビア大学メイルマン・パブリックヘルス校
ソシオメディカル・サイエンス学部



 このメールの発信者の方は、私が平成10年4月30日脳梗塞を発症後2年半経ってから通院しいる病院の担当のSTと妻が相談し引き篭もりがちな私のために見つけてくれた近くの失語症友の会「みなとの会」(この論文では「みさきの会」となっています)でお知り合いになった方でした。(メールの中で△△様となっている方は論文中では「戸田さん」という仮名で登場おられる「片マヒ自立研究会」の会長です。)
 
 その会で加盟・参加しているとき、平成15年10月20日(03.10.20.)付けにて、失語症を考え・語る、その1というタイトルで当時の心境をこのページに発表しました。それは今から2年3ヶ月あまり前のことでした。
 
 その当時は今より文章を書く際必要な単語がなかなか出てこないし、思考が混乱しており、またその都度、作業が中断したので、記述内容に一貫性を欠きずいぶん苦労しました。
 従って、私は当時の心境をを単に思い当たるままアトランタムに書き並べたものでした。
 私は、冒頭で纏綿として脳裏を徘徊する記憶から往時(発症前)を述懐し、私が過ってお聞きした講演会の事を書きました。そして、それを講師が仰った言葉を頂き次のように締め括りました。

 
       
“でもねえー、着替えや喋ることも何もかも介護なしにはできない彼を研究して博士になった人は3人も
         いるんですよ。立派に社会に生きてるんです。世の中には要らない人はないんですよ。彼は功労者
         ですからね。” 

          ‥‥もう何年経ちましたでしょうか。

  しかし、当時は私の関係するところで博士が誕生するなどはゆめゆめ考えられない事として対岸の出来事と距離を置いて聞いておりましたが、今になって再現される現実に直面し戸惑っております。
 “世の中には要らない人はないんですよ。”と自らに語りかける勇気は毛頭ありません。ただ、自らの発症後の経過における心と体の変遷と変貌を振り返るよい機会であると思っています。
 
 このメールの発信者の方は、私の参加していたその失語症友の会で、会報の作成等いろいろ会の面倒を看て頂くボランテアとしてお会いしましたが、若い綺麗な、寧ろ、何処となく余裕が感じられ、また、その方の気品からもその場に相応しくないという印象でした。そして、何時も幼稚園生位の可愛い女の子を連れていました。
 私は会に慣れてくるにつれ、この方は大学院の学生さんで、ご主人は同じ大学の病院の医師であることを知りました。会の終わりにご主人が医師として日常の健康についての注意点等のお話をして会員に会員としてご挨拶をしていたこともありました。ご夫妻ともボランティアとして賛助会員登録をしてありますので福祉のご理解のある方と思っておりました。
 しかし、毎月送られてくる会報で、彼女が聞き取り・編集した集会での会員個々の発言内容を見ると、発信・受信に侭なれないコミュニケイションの混乱に神経質になっていた私は、時々発言の主旨や核心部分に齟齬を感じることがありました。
 でもその事は、いわば障害者でないので仕方がないと鷹揚に解釈することもありました。それが逆に障害者の私の感覚にとって新鮮味があり、また同世代の息子を持つ私に親しみを培いました。
 私は、この友の会では多く皆さんと異なった病院でしたから知り合いもありませんし(中心になって指導しているSTの勤務する病院の出身者が主になっている)、会員同士の連絡があまりなく、会話が不自由で、また会のなかでメールを使っている方のごく限られておりましたので、一寸したことにはこの方にメールによる交信がありました。
 つまり、その当時私は、全てのことに、森が見えない木のような存在でしたから周囲を伺う窓のように爽やかに受け取っていました。特に最近活動の盛んな「若い失語症者のつどい」の担当者も紹介して頂きましたし、この論文の主になっている団体「片マヒ自立研究会」の紹介も彼女からでした。
 
 私の愚弟の博士号の取得は応用科学でしたから、実験デーダーや物質の化学構造式等化学的な基本知識を要しますので、私も同じ様な仕事に携っておりましたが、私とは分野が違っていましたので論文には一切拘らないでおりましたが、この論文を最初目にしたときには、社会学の研究論文と言うことですから一般人にも分かり易い文体ですので、何とか読まさせて頂きたしと思いました。
 しかし、発症以来このような文章に接する事が殆どないので、この論文が混濁した私の頭脳にはあまりに取り組み難いことに戸惑いました。
 “権威ある大学の博士論文なので当然だ。お前は自分の立場をよく弁えろ。”…私は、自身の声に打ちのめされ一時は読むことを辞めようと思いましたが、私と仲間の存在を第三者がどの様に捉えているかを知りたい、その一念に奮起され改めて読み始めました。
 それにはこのまま辞めた場合の障害者私自身の姿を髣髴し自らへの惻隠の情がありました。
 そして、象を語る群盲の一人にならぬよう祈りつつ所見を綴ります。

 先ず初めに、この論文について語る場合は何を擱いてもこの論文について概要を鳥瞰できるこの論文の目次を表示するのが礼儀と思われます。


         目次

      序章 脳卒中を<生きる>ということ―問題の所在 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

      第1節 脳卒中 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
      第2節 問題の所在 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
      第3節 痛みと苦しみを<生きる> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
      第4節 「絶望」から「希望」へ―「新しい自分」を見出す ・・・・・・・・・・・・・・・・・8
      第5節 本論文の構成と意義 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10

      第一章 病いを<生きる>という経験―先行研究と本稿の枠組み ・・・・・・・・17

      1節 医療と病いの捉え方 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17

      1−1 <生きる>というテーマ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
      1−2 疾患と病い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
      1−3 医療社会学から健康と病いの社会学へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

      第2節 病む人への視座 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23

      2−1 病人役割とその限界 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23
      2−2 適応モデルとその限界 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
      2−3 構築主義とその限界 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29

      第3節 病を<生きる>ことを捉える枠組み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31

      3−1 病いの経験 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
      3−2 <生>の全体性 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
      3−3 「変容」への着目 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35
      3−4 モメントとしての「出会い」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37

      第4節 調査の概要―27人のプロフィール ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39

      4−1 対象者との「出会い」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
      4−2 3つの患者会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
      4−3 27人の特徴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43

      第二章 <生きる>ことの危機―自明な世界の崩壊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52

      第1節 脳卒中の発症 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52

      1−1 突然の発症 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
      1−2 自明な世界の崩壊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・54

      第2節 危機の諸相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56

      2−1 生命の危機―第一の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
      2−2 コミュニケーションの危機―第二の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59
      2−3 身体の危機―第三の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61
      2−4 家庭生活の危機―第四の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・64
      2−5 社会生活の危機―第五の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68

      第3節 人として<生きる>ことの危機 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72

      3−1 <生>の統合性の喪失 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72
      3−2 未来を絶たれる―「治りません」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76
      3−3 死への衝動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77

      第三章 病いの現われ―<生きる>ための試行錯誤(1)・・・・・・・・・・・・・・・85

      第1節 生命の危機からの試行錯誤―第一の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・85

      1−1 救命救急医療 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・85
      1−2 リハビリテーション医療 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・87
      1−3 訓練室での訓練 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・88
      1−4 スケジュール外の病院での訓練 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・90
      1−5 回復への「希望」を持つ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・91

      第2節 コミュニケーションの危機からの試行錯誤―第二の位相 ・・・・・・・・・93

      2−1 言語訓練 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93
      2−2 「治る」ということ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・95

      第3節 身体の危機からの試行錯誤―第三の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・97

      3−1 入院中のリハビリ訓練の困難 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・97
      3−2 入院中の試行錯誤 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98
      3−3 退院後の試行錯誤 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・100
      3−4 身体の回復 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・103
      3−5 回復の再定義 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109

      第4節 家庭生活の危機からの試行錯誤―第四の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・112

      4−1 采配する家族 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・112
      4−2 家族の形を変える―介護の形 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・114
      4−3 家族のために働く―経済的状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・116

      第5節 社会生活の危機からの試行錯誤―第五の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・118

      5−1 復職・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・118
      5−2 通勤のための試行錯誤・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121
      5−3 仕事をするための試行錯誤・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・122

     第四章 病いの受け容れ―<生きる>ための試行錯誤(2)・・・・・・・・・・・・・・・129

     第1節 生命の受け容れ―第一の位相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・129

     1−1 受け容れるということ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・129
     1−2 「障害受容」の陥弄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130
     1−3 それぞれの受け容れ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・132

     第2節 コミ受け容れ―第二の位相 ・・・・・・・・・・・・・・134

     2−1 コミュニケーションのための道具 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・134
     2−2 話せないことを受け容れる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・136

     第3節 身体の受け容れ―第三の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・138

     3−1 移動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・138
     3-1-1 歩くこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・138
     3-1-2 外出 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・140
     3-1-3 車 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141
     3−2 身体の可能性 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・142
     3-2-1 書道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・142
     3-2-2 ピアノ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・144
     3−3 新しい身体に「慣れる」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・145

     第4節 家庭生活の受け容れ―第四の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・146

     4−1 家族が生き方を変える ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・146
     4−2 家族をかえりみる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
148

     第5節 社会生活の受け容れ―第五の位相 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・152

     5−1 職業生活の回復の困難―復職への障壁と断念 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・152
     5−2 復職してからの困難 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・154
     5−3 新しい生活 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・156

     第五章 「出会い」と「変容」―「新しい自分」になる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・165

     第1節 「出会い」―重要な他者との相互行為 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・165

     1−1 医療専門職との「出会い」―フォーマル/インフォーマルな関係・・・・・・・・165
     1−2 家族―改めて「出会う」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・168
     1−3 同病者―仲間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・170

     第2節 他者の「変容」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・172

     2−1 医療専門職が変わる―専門職が制度外で支援すること ・・・・・・・・・・・・・・172
     2−2 家族が変わる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・174
     2−3 同病者の中で変わる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・175

     第3節 「新しい自分」になる ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・177

     3−1 「笑える」ようになる―「命日」と「誕生日」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・177
     3−2 「変容」と「持続」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・181

     終章 再び<生きる>ために ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・186

     第1節 <生>の統合化―危機の中から立ち上がる主体 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・186

     第2節 病いの経験―多様性に開かれる契機 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・188

     第3節 「弱い主体」が<生きる> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・190

     第4節 再び<生きる>ために―人々の声に基く制度と社会の改革へ ・・・・・・・192

     引用文献一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・197

     表1―1 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
     表1―2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
     表2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47

     ※註は各章末にあります

     400字詰原稿用紙換算781枚程度

     (文献を除く)

 先ず初めに

 
 序章 脳卒中を<生きる>ということ―問題の所在
   「第1節 脳卒中」

 によりこの論文を紐解くと
 次の文章が出てきます。

 「人生の途中で重い病いを患ったり、障害を持つようになったりしたその後を生きることは、多くの場合、時には自らの死を思うような辛く険しい道行となる。その辛さは、身体の痛みや不具合によるものであることはもちろん、家族がばらばらになること、元の職業を失うこと、障害者として憐みの目で見られることなどさまざまであり、「このような自分が生きていても良いのだろうか」と、自らの存在を否定するような、<生>の根源に対する疑問となって現れる。しかしながら多くの人々は、そうした痛みや苦しみを乗り越え、病いを持ちながらも生き抜いている。そこでは何が起こっていたのか。人々はどのような過程を経て病いの後の生を可能にしてきたのか。すなわちいかにして、「このような自分も生きていてよいのだ」と自らの<生>を肯定できるようになったのか。本論文は、病いと障害が突然やってくるという脳卒中になった人々を対象にして、彼らがその後の生を<生きる>ということをテーマに論じるものである。
 戸田さん(仮名:以下、人名ならびに患者会名、病院名は仮名とする)は、1985年5月、56歳の時に脳卒中を発症し、右麻痺と失語症という障害が残った。少し長くなるが彼の手記を引用する。

 「・・・やがて、容体が安定してきて、寝台輸送車の世話にならずに車椅子で移動することができるようになった。外の風景はいつしか紅葉が過ぎ、雪虫の舞う季節に移り変わっていたが、楽観主義とは程遠い状態で、私の病状は少しも改善されなかった。次第に気分は暗く絶望的になり、焦ってくる。試みに新聞紙を指で挟んで見たが、スルリと落ちる。『おかしいな。新聞紙一枚つまめない』
 これが自分の現実として把握された時、初めて将来が気になり始めた。『私の人生は?家族は?仕事は?退院後の生活は?』といった問題が雲のようにわき上がり、不安に包まれてしまう。
 それまでに何度となく切り抜けてきた難関も、今度のように会社員としての生活基盤自体を揺るがせるほどの災難不幸ではなかった。今までのせっかくの努力もすべて水の泡と消えるのか。
 それまで想像すらしていなかった状況、即ち、障害者になった私が生きる方法など、あるのだろうか。妻と子どもとローンを抱えて、しかも働けなくなったらどうするんだ。自分の立っている地盤が抜け落ちるような破局の瀬戸際に追いつめられて、私はただ呆然とするしかなかった。
 この世では、もう必要なくなったんだろうか。
 私の人生はこれで終わったのだろうか。」(戸田さん)

            …                                    」

 ここで仮名になっている戸田さんは、この論文をほんの少し読み進むと実在の氏の氏名はもとよりその実績が分かる「片マヒ自立研究会」の有名な会長ですから、彼を前面に打ち出すことでこの論文の脳卒中に対する対応の展開はおおよそ展望できると思いました。
 それはこの序章において、聴き取り調査の他の対象者については具体的には全く触れていませんが、「戸田さん」と言う文字は随所に出てあり、その数は16回になりますし、また、論文全体で戸田さんに関する記述内容の占める割合は量・回数とも誰よりも群を抜いていることから明らかです。
 
 それは

  序章 脳卒中を<生きる>ということ―問題の所在
  第3節 痛みと苦しみを<生きる>
 のなかで、“人が<生きる>とはどういうことなのだろうか。…”、と記述してありますが、そこで作者は聴き取り情報の編集方針を示しています。つまり、作者の指定した<生きる>という五つの<生>を成り立たせている位相は戸田さんに関する資料を総合すると全て網羅しているからだと思います。

 『…
  では、人が<生きる>(文脈によっては<生>)とはどういうことなのだろうか。ここでは、ひとまず身体的な存在としての人が、他者や事物と相互的な関係性を持ちながら、互いに行為しあう時空間において成立する、個性的な営みのことを<生きる>と定義しておこう。それは、生物としての生命という位相から、自己におけるコミュニケーションや身体という位相、言葉や行為を介して家族や同僚や近隣といった他者と相互的な行為をし合う生活という位相まで、複数の位相から成り立っている。そして、各位相が充足され、統合されることによって、人が<生きる>ということの全体性が形作られていると考えることにする。これはすなわち、家庭生活や社会生活を犠牲にしたままで、生命やコミュニケーションや身体が保持されれば良いということではなく、逆に、コミュニケーションや身体への配慮を疎かにしたままで、家庭生活や社会生活を充実させることはできないという、人が<生きる>ということの重層性を意味している。
このような観点に基いて、本論文では次の五つを、<生>を成り立たせている位相として立てる。
@ 生命:命を持つ者として存在していること
A コミュニケーション:言葉を使って考えたり他者とコミュニケートしたりすること
B 身体:身体を認識したり動かしたりすること
C 家庭生活:家族との関わりを持ちながら暮らすこと
D 社会生活:職場や親しい者との集まりなどで社会的存在として暮らすこと
                                                                 …』

 
 私は氏の行っていた、「片マヒ自立研究会」の“障害受容”の講義についての私の質問にご親切に答えて適当な本(リハビリテーション心理学入門ー南雲著・大田監修・.「歩けた!手が動いた」ー森山著・.「心が動く」−森山著・太田先生の著作集ー壮道社)を推薦頂きましたが、当時は私の能力では解読以前の状態でしたので、私の方からお願いして氏のメールを頂きました。
 
“事情が許せば一度拙宅にお越しください。相鉄の駅から近いので鉄道のみで来宅が可能です。自分で選んで資料を選ぶのが一番良いと思います。”
 
そこで私は氏の親切に甘え、2003.12暮、横浜から相鉄線で「いずみ野」下車、徒歩3分の氏の自宅に伺ったことがありました。博学で聡明な努力家と言う感じで奥さんの説明によると地域活動に指導的な役割を果たしているとのことでした。
 構音障害である氏は発症後の年月が長いためか当時は構音障害の症状は全く見られなく、よく喋りいろいろ資料を貸してくれました。感謝しております。
 後になってから知りましたが、氏は「闘病記」の著書があり幾多の講演依頼があると伺っていました。氏の講演内容をお何となく小耳に受けた私は、氏の言われるADLとかQOLという聞き慣れない言葉に戸惑いを感じましたが、これも後に分かった事ですが、それは、Activity(行動)、Daily(毎日の)、Living(生活)のADLであり、Quality Of Lifeの略である「人生の質」のQOLのことであることを知りました。そして、私は研究会での氏の発言を伺っているうちに、氏の講演がそのADLとQOLとの関連で回復途上のご自分の経験に基き障害受容とリハビリを説いているように感じました。
 なお、この論文では作者との出会いについては次の記述があります。(後の記述と一部重複します)


  第一章 病いを<生きる>という経験―課題と方法
  第4節 調査の概要―27人のプロフィール
  4−1 対象者との「出会い」

 『…。
 最後に「自立研究会」の人々にお願いした。「自立研究会」は、2002(平成14)年12月に、筆者がある出版社が主催するリハビリテーション研究会に参加した時、ゲスト・スピーカーとして来ていらした戸田さんが主宰する会である。その場で戸田さんと知己になり、2003(平成15)年1月から6月まで、毎月の例会に参加させていただき、そこで知り合った人々に聴き取りを依頼した。
                                                                   …』

 また、そのときのお話の中で氏は“今日書きました”と仰って半紙に書かれた書を何枚かお示しになり説明されました。何と言っても門外漢の私にはその書の意味も、またその場にその書が登場した背景か理解できずにおりましたが、この論文でその理由が分かりました。

  第四章 病いの受け容れ―<生きる>ための試行錯誤(2)
  第1 節 生命の受け容れ―第一の位相
  3−2 身体の可能性
  3-2-1 書道

 『戸田さんは、脳卒中の発症で右麻痺になったが、主治医から利き手を交換するように言われた。発症前は右利きだったので、字も書けないし、新聞紙一枚つまむことさえできなくなったことに悲嘆にくれていたが、そんな時主治医から、「この右手は、おそらく使えるようにはならないでしょう」と言われた。「修復不可能」という言い方もされ、戸田さんはひどくショックを受けたという。しかし同時にこの主治医は、「戸田さんにとっては悲しいことだけど、左手を使えるようにしましょう」と言って代替案を出してきた。
 左手を使えるようにしましょうというという主治医の言葉を聞き、戸田さんは、すぐに妻にノートを買ってきてもらい、それまでは利き手ではなかった左手で書くという練習を始めた。戸田さんは「あの医者がオレをうまくのせたんですよ」と言っていた。 もっとも、戸田さんは、利き手交換をするため、左手で字を書けるように訓練を始めたものの、右手で書けるようになることに、しばらくの間こだわっていたという。右手の回復を諦めることができなかったのである。リハビリ病院を退院してからも、左手で書く練習をしつつ、いつか右手でもかけるようになりたいと思い続けていた。
 戸田さんは、脳卒中になる前から書道が好きであったが、ある時保健所の機能訓練教室の仲間が集まって作った患者会で新年会が催され、その席で書初めをするというイベントがあった。その頃戸田さんは発症してから4年ほど経っており、麻痺した右手でも、何とか筆を握れる状態になっていた。そこで戸田さんは、左手で右手首を支えながら、右手で書初めを書いてみた。しかし、そうして書いた字は、形は整っていたが力に乏しく、戸田さんにとって満足のいくものではなかった。その時、ある右麻痺の人が左手で筆を持っている姿を見かけた。書道は絶対に右手でなければ書けるはずはないと思っていた戸田さんであったが、左手でも書道ができるものかと思い、戸田さんは自分でも左手で書いてみた。書いてみると、自分が60年間生きてきた中で、初めて出会うような、とても味わいのある不思議な字が書けた。力強い線が書けたといって書道の先生にもほめられた。そのことは戸田さんを驚かせた。戸田さんはその時、これは昔の自分の字ではない、全く別人である自分の字だと思い、深い感動を覚えた。戸田さんはその時のことを思い出してこう言う。

 「かつての自分から、障害によって奪い取られた能力がある代わりに、新しく身につけた能力が加わって、新しい自分を作っていくんです」(戸田さん)

 このことは、それまで右手の機能回復だけを目標にしていた戸田さんに、左手で字を書くという可能性を示し、そこに未知の世界が広がっていることを教えてくれた。このことがきっかけになって、戸田さんは、その書道の先生から、書道教室への入門を勧められ、本格的に左手で書く練習をしてみようという気持ちになれた。その後、戸田さんは書道の先生から、左手で書くのに適した隷書という書の型を教わった。そして、「入門500時間訓練」といって、500時間に達するまで毎日隷書の練習をすることを自分に課し、戸田さんは左手で書くやり方を体得していった。そこに至るまでには、筆先が左手の陰に隠れて見えなくなったり、力の入れ加減の調節がなかなかできなかったりと、つぎつぎに問題がでてきたが、その都度、書道の先生や同じ教室に通う人々に教えてもらったりしながら解決していくという試行錯誤の積み重ねがあった。やがて戸田さんの書道の腕前は、大きな書道の展覧会で入賞するほどまでになった。
 発症から数年経って、戸田さんの右手は、左手で支えながらだったら字が書けるようになるまでに回復してきたが、戸田さんは、左手で書を書いている。それは、「左手を鍛えながら、今後の人生を、胸を張って生きていけるという自信」を得たからだという。戸田さんは、左手で書く字に、そして左手で書けるということに誇りを持つことができたのである。戸田さんは、リハビリ病院に入院中、激しい訓練がたたって肝機能が悪くなり、絶対安静を言い渡され、筋肉がすっかり落ちたり、拘縮が進んだりして、自分の身体が自分のものでなくなるような気持ちを持っていた。また、「会社人間」だったのに、それまでどおりに勤めることもできず、人生に「絶望」を感じたこともあった。しかし、左手で書く書道を、自分で納得の行くまで極めるようになって、これこそが自分であると、自信を持てるようになった。妻も、右手で書いていた以前の夫の字よりも、今の字のほうがはるかに好きと言って、戸田さんが左手で書く隷書を褒めていた。
 戸田さんが利き手を交換したのは、当初は、脳卒中になり、それまでとは異なる新しい身体になってしまったので、今までとは異なるやり方で物事をできるようにしようとするためであった。しかし、左手で書く書道には、単にできなくなったことが再びできるようになること以上の、身体の新しい可能性を見出すという大きな意味があった。それは、戸田さんにとって<生きる>ための大きな支えとなっていた。』

 「片マヒ自立研究会」について、このHPでは「失語症を考え・語る、その1」の中で(05.12.10.追加)でK研究会として記述してありますが、参加者は障害者に限らず大学の研究者や雑誌等の編集に携る方もおられ、その話題のレベルが高く、その名称の通り、会の企画・運営全て自立して行う会で、私は常に傍観者の立場を越えることはありませんでした。
 実は、同じく「失語症を考え・語る、その1」で紹介した『私のリハビリから社会参加への道』と言う講演の講師は、当時の「片マヒ自立研究会」の事務局長で、この聴き取り調査では二谷さんという仮名で登場し、ご自分の発症からリハビリ・復職・定年の経過を説明しています。また、仮名になっている福田さんは当時自立研究会の会計を担当していましたが、この聴き取り調査では発症後の復職の並々ならぬ苦悩の日々を語っていますが、定年まで勤め上げ、「脳血管障害の先輩から後輩へ 暮らしのハンドブック」という本を発刊しそれが多くの読者の関心を集め、その方々の要望と彼の熱意より、西金沢地域ケアプラザで現在は障害者連絡会を主催しています。この二方は障害度は2級ですから決して軽い訳ではありませんが、立派に立ち上がり指導的に活動しておられる、会の双璧としてのその存在感のある方々ですが、そう言う方が会長の戸田さんは言うまでもなく、他に幾多もおられるのです。
 
昔から上手に表現できる賢明な人のことを「利口」な人と言うことでお分かりと思います。私のような失語症者は、適当な言葉が見付からず自己主張が不自由ですので、堂々と議論する人たちのなかでは「愚か者」の範疇に入ります。

          《本来なら、全て総括してから私の所感を言及させて頂くべきところですが、
                    今回は論点ごとに表示させて頂くことでその論旨を明確にしたいと思っております。》


 従って、ことさら高次脳機能障害としての失語症を訴えてきました私としては、この論文で、障害の後遺症でその負荷の次元か実質的に全く異なる失語症者と「片マヒ自立研究会」の会員を同じ脳卒中の患者として一様に聴き取り調査の対象として選択することは問題はないが、目次に設定されている各項目に、一律に、俎上にのせることには納得できないと思っていましたし、読み終わった段階でもそれは変わりません。
 それは、残念ながら、高遠な見地で設定されたこの論文を冒涜する危険を冒すことになるかもしれませんが、矢張り、障害者の自己中心的視点がら解放されていないと理解して下さい。今の私には論文を仕切る理論より現実に起こっている現象の方がより説得力があるのは事実です。
 従って、“一律に俎上にのせることには納得できない”という発想は、現実に存在する後遺症の分類(体幹機能障害・運動麻痺・意識障害・構音障害・失語症・失行・失認・感覚障害等)の理解がないと受け難いものであります。例えば、戸田さんについて「脳卒中を発症し、右麻痺と失語症という障害が残った。」と書いてありますが、戸田さんは“失語症”ではなく“構音障害”であり、“失語症”と“構音障害”は適当な譬えにはならないかもしれませんが、月と鼈(すっぽん)くらいに違うことは、当事者は、勿論、脳卒中の言語障害に関わる人なら分かる筈です。

 そのような点はこの論文の言う「変容」に対する対処に現れていると思います。
 この論文では「変容」について次のように述べています。

 第一章 病いを<生きる>という経験―課題と方法
  
第3節 病いを<生きる>ことを捉える枠組み
  
3−3 「変容」への着目

 『本論文では、人々が病いの後の死を思う「絶望」の中から、<生きる>という方向に向かうための条件として、彼らが自らの<生>をどう理解するかという経験の大きな転換を掴み取る。そして、病いによって、危機としてしか認識することのできなくなった<生>の各位相を、新しい経験を手に入れて、まるで生まれ変わったように、今までとは異なる見方で捉え返すことができるようになることを、主体の「変容」と概念化する。
     …
 こうした試行錯誤の経験を繰り返す過程で、脳卒中になった人々は、自らが受苦的で受動的な存在であることを認め、病気になったことによって「新しい自分」になったという認識を得ている。この、新しい経験を手に入れるという認識の部分と、新しく実際の身体や生活を作りかえるといった実践の部分の双方が変わるということが、本論文で定義した「変容」である。                              …』

 こうゆう概念自体私には受け入れ難い前提ですから、障害者に対応する際に最も重要で難しい課題ですが、今回の場合、各自の障害受容の認識とその周囲の客観的同意がない以上、この論文の言うところの「変容」のような項目に聴き取り調査の内容を羅列するとその結果は、単なる当事者個人の価値観に順じ、一義的定義に重大な錯誤が生じると思っております。
 つまり、実際には二谷さんも福田さんも「変容」という項目に登場していないのは作者の定義による「変容」に該当しないからでしょう。
 発症から定年までの間に厳しい苦悩、過酷なリハビリがあるにしても、程度は縮小しても職業を持ち収入を維持できるだけの能力が存在する場合「変容」という感覚は馴染まないと言うことになります。

 作者は

  第五章「出会い」と「変容」―「新しい自分」になる
 と言う章で以下の通り記述してります。

 『本章では、第三章と第四章で五つの位相から把握した、脳卒中になった人々の<生>の危機からの回復と受け入れについて、こうした「出会い」とそれをモメントとする主体の「変容」という観点から、総括を行う。
 これまで見てきたように、脳卒中になってからの人々の営みは、自分が自分でなくなってしまい、<生きる>ことを否定されたような深い「絶望」の中で、自分には何ができるか、どのように<生きる>べきかということを、挑戦しては失敗し、失敗してはまた挑戦するという、試行錯誤する体験の繰り返しであった。彼らは元通りの身体や生活を取り戻そうとしたり、新しい身体の状況に合わせた新たな生活を作り上げたりしようとする試行錯誤を経て、病いを持つという自らの存在を肯定的に捉え返せるような主体の「変容」を遂げ、分裂した<生>を統合化し、再び<生きる>という方向性に向かうことが可能になっていた。
                                                                   …』


 この総括に対して、その対応としての聴き取り調査の掲示されている部分を表示します。

 『この「出会い」は、江藤さんにとって、もう言葉は良くならないのではないかというコミュニケーションの危機を乗り越え、言葉が不自由であったとしても、自分は尊厳ある人であり、他者からもそのように見られていると思えるような、自分を肯定できるようになる「変容」を促した。』

 『すなわち、江藤さんの場合、言語聴覚士に対して、「好き」という感情を抱けた時、自分は言葉の障害を持つけれども、人とコミュニケーションをとることができるのだから、このような自分でも大丈夫と思い返せるように「変容」していた。』

 『尾山さんの場合も、患者会に通うため、信号が青の間に横断歩道を渡れるようになりたいという個別の目標を、担当の理学療法士が理解してくれ、フォーマルな制度に枠取られた訓練を超えて、特別に訓練をしてくれることが励みになり、リハビリへの意欲が湧き、次々にできることが増えてきた。…この理学療法士が、ルーティンの訓練を超え、尾山さんの望みに合わせて個別に対応してくれたことによって、尾山さんとこの理学療法士との関係は、特別なインフォーマルなものになっていった。ここにも「出会い」が指摘できる。リハビリを通したこの理学療法士との「出会い」は、自分は何も出来なくなってしまったという「絶望」の只中にいた尾山さんが、できなくなったこともだんだんできるようになるし、手足が不自由でも自信を持つことができると思えるような「変容」を促した。このことは、尾山さんの脳卒中の後の<生>を生き抜こうとする気持ちを、大きく後押しした。』

 『尾山さんの場合、理学療法士を信頼することができるようになった時、自分の弱さや望みをさらけ出して伝えることができ、歩けるようになったし、手足は不自由だけれどもできることはあると、自信を持てるように「変容」していた。』

 『辺見さんはリハビリ病院に入院して1ヶ月くらい経った頃、リハビリが遅々として進まずに落ち込んでいたが、その時何とかその状況を打開しようと、訓練を担当してくれる理学療法士を「好きになろう」と考えた。…そのことをきっかけにして辺見さんのリハビリ訓練は急速に進み、「めきめきと良くなった」という。』

 『このように、脳卒中になった人と医療専門職との間に、フォーマルな関係を超え、親愛や信頼といった感情の部分が組み込まれたインフォーマルな関係が形作られた時、人々は個別で具体的な目標を表明することができ、その目標を医療専門職が聞き入れ、場合によってはルーティンの範囲を超えて訓練をすることができ、やがてその目標が達成されるという道筋が見えてくる。この時の彼らと医療専門職との間には、制度の枠を超えた、個別の生を<生きる>ことに向かう、互いに敬意を払い、理解し合おうとする、人と人との関係、互いに気遣い合い、共にいる、という関係性が成り立っていたといえる。そして、この「出会い」がモメントとなり、「絶望」の中から「希望」を見出せるような主体が立ち上がることを可能にする「変容」を促している』

 即ち、聴き取り調査の掲示されている数は以外に少ないうえ具体的内容は、殆ど失語症者に偏っており、また重複があり、「変容」の内容の重点は社会復帰以前のものに止まっております。
 脳卒中は損傷をうけた部位により障害の負荷の次元が異なることを実証することになります。
 脳卒中の後遺症のなかで失語症は脳機能障害のうち社会復帰に最も
厄介な症状を持ち、単なる言語障害ではないという理解が最近やっと浸透しつつありますが、一般の言語障害(構音障害等)でも重くても3級と言う矛盾に対する検証なくして「変容」を語れないと思っています。
 つまり、これが聴き取り調査の構造的な限界と思っています。
 これは 失語症者のコンプレックスでしょうか。障害者の造反でしょうか。


 振り帰って、最初読んだときの対応ですが、

 障害者の世界からの脱出を最終的希望でありながら未だその中に止まっているものは、生活の価値観が異なったり、物事を判断する触覚・思考機能が損傷されたり、部分的に減退していることは珍しいことではありません。
 私も例外ではありませんので、この論文を読むにあたり、他者の邸宅を訪問したくてもその前に強固の扉に憚れた訪問者のように、その中に入るためには、それを調査する基地が必要で、私は、点では「この論文の根幹になった聴き取りの動機」に注目し、そこから入り口の通路を探しました。
 つまり、「この論文の根幹になった聴き取りの動機」はこの論文中で最も身近で入り易い基地と思われましたから。
 障害者や医療関係者の文書は障害にたいする疾患の原因・説明・治療・回復の見通し・注意事項等ある程度定型の約束事がありますが、今回のように社会学者の著作は、ページを一枚一枚昇順に巡ると、それは恰も、外国の街に繰り出した慣れない観光客のように盛り沢山の商品に目を奪われメインストリートや目的である見学地の所在地やそのコミュニティとその機能を見失う虞があるものと同様で、私は障害者と学者という越え難い距離の懸隔のもとで、過去の学説や最近の医学知識等を背景とした多岐に亘る考察やそれについての作者の解釈に翻弄され作者の主張点が理解し難いのが本音でした。
 文面には作者の繊細な品性がよく滲み出ていて共感と安らぎを与えています。
 しかし、その反面、論文としての厳しさがいくらか欠落しているような感じをうけました。

 ここで、この論文の根幹になった聴き取りの動機について検索したところ

 序章 脳卒中を<生きる>ということ―問題の所在
 第2節 問題の所在 

   で次の通り記述しています。


 『四年にわたって、主に脳卒中の後遺症で失語症となった人々の患者会、「みさきの会」でボランティアをさせていただいた。やることといえば、例会の時の会場作りをしたり、書記をしたり、会報の印刷や発送を手伝ったりするくらいであったが、彼らの痛みと苦しみ、他者への思いやりと優しさ、社会と関わりを持とうとする志向性、おそらくそれらは人としての豊かさといえるものだろうが、そうしたものに魅了された。ここに、人が生きてゆくに当たって重要な何かが見出せるのではないか、と直感的に感じた。
 だが、彼らに自らの病気とその後の生き方について聴き取りいただくようになったのは、会の手伝いを始めてから一年半後のことであった。それは、聴き取りを申し入れて断られていたからというのではなく、筆者自身が、手伝いをさせていただく中で彼らの生き方の中にテーマを見出すようになったという経緯、しかしながら人生の中で最も苦しい状況の中にある彼らに、話を聞いてもよいのだろうかというためらいを克服してゆく過程があったからだ。そもそも、「みさきの会」でお手伝いをさせていただくようになった最初のきっかけは、医療専門職がボランティアで患者に関わるということを調査するために、会の立ち上げから関わってきた言語聴覚士に聴き取りをした時に、この会を紹介されたからであった。やがて会の手伝いをさせていただくうちに、患者と呼ばれる病いになった人自身が、その痛みと苦しみの中から、家族や医療専門職や同じ病いを持つ者の支えを得ながら、自らの<生>を生き抜いている姿を目の当たりにし、そこに記述し分析してゆくべきテーマを発見するようになった。このテーマの発見によって、聴き取りをすべき相手が、医療専門職という病む人を治す側にいる人ではなく、病いを持つその人へと変わってきたのである。…(中略)…。筆者が、脳卒中になり痛みや苦しみを生きる彼らに目を向けるようになったのは、曲がりなりにも社会学の研究者を目指そうとした者として、必然のことであったかもしれない。…』

 
ここで
 「
彼らの痛みと苦しみ、他者への思いやりと優しさ、社会と関わりを持とうとする志向性、おそらくそれらは人としての豊かさといえるものだろうが、そうしたものに魅了された。ここに、人が生きてゆくに当たって重要な何かが見出せるのではないか、と直感的に感じた。
 と記述しています。

 この内容は作者に相応しい優しい心配りが伝わってきますが、私には作者の4年間に亘る観察の結果維持してきた結論としては到底考えられないことです。
 2004.1.25.付け“タイトルの変更と過渡期にある失語症の会について”で言及していますが、私の見解が下衆の後智慧であるとか、屈折していると受け取られるとすれば、私の不徳の至りと思っています。
 しかし、当時としては精一杯のことで、関係者の名誉に拘わることがあるので詳細には触れませんでした。
 失語症者の人格について“人懐こい”、“実直”、“ひたむき”等と円満を強調する表現に出会うことがありますが、敢えて申し上げますが、それは迷惑なことではあるが必要不可欠な錯覚と思っております。
 発症は確かに人格を変えていきます。それは生きる生物の先天的対応能力によるものですから、それを失った生物は人に限らず滅びます。
 少子化で倫理観が変わった昨今では適当な例ではないかも知れませんが、芥川龍之介の侏儒の言葉による“道徳を蹂躙する強者、道徳の迫害の受けるもの”にとっては失語症者は“道徳に愛撫される弱者”ですから、
“他者への思いやりと優しさ、社会と関わりを持とうとする志向性”は至極当然なことです。
 つまり、実際は厳しい内部矛盾によるジレンマや人間関係の軋轢と葛藤のなかで生きているんです。
 作者がそれをどの様に考え対処されたか、疑問な点です。


 更に聴き取り対象者について大部行を空けてから、つまり、第2節から第4節まで飛んで、聴き取り調査に参加した所属団体と参加数及び参加の経緯が書いてありました。(内容が一部重複します)
 実はこの論文の難解な理由は関係する内容文が飛び飛びに配置してあることが重要な要素と考えています。
 従って、”配置”については後で触れます。

 第一章 病いを<生きる>という経験―課題と方法
 第4節 調査の概要―27人のプロフィール。
   4−1 対象者との「出会い」

   
で次の通り説明しております。

  『…まず、2000(平成12)年4月から2004(平成16)年5月までボランティアをさせていただいた「みさきの会」の会員の何人かに、話を聴かせていただきたいとお願いした。ほとんどの方は、「お役に立つのなら」と言って快諾してくださったが、「話すことはないから」と遠慮がちにお断りになった方もいらした。次に、行事への参加等を通して知り合いになった「若葉リハ友の会」の人々にお願いした。この会に参加するきっかけを作ってくれたのは、この会を支援していた若葉リハビリテーション病院(以下、若葉リハ)の医師であった。若葉リハには、医療専門職同士の協働といわれる「チーム医療」の実態について、各専門職の人々に聴き取りをするため、1999(平成11)年12月から何度か訪れていた。その際に知り合った医師のひとりが、「若葉リハ友の会」に発足時から関わっており、脳卒中になった人々の話を聴きたいという旨を伝えたら、「みんなすごいよ。話、聴いてみな」と言って、餅つき会や食事会などの行事に誘ってくれたのだった。そうした場で知り合った何人かの人々に、改めて聴き取りの依頼をした。最後に「自立研究会」の人々にお願いした。「自立研究会」は、2002(平成14)年12月に、筆者がある出版社が主催するリハビリテーション研究会に参加した時、ゲスト・スピーカーとして来ていらした戸田さんが主宰する会である。その場で戸田さんと知己になり、2003(平成15)年1月から6月まで、毎月の例会に参加させていただき、そこで知り合った人々に聴き取りを依頼した。
 その他にも、若葉リハに入院中の方や外来通院中の方にも話を聴かせてもらった。患者会を通じて話を聴かせていただく人々は、発症してから数年経っているので、脳卒中になって間もない人々の話も聴いてみたいと思ったからだ。若葉リハの医療専門職の人々の協力を得て、2002(平成14)年6月、若葉リハに約1週間の間、居させていただき、その間、入院病棟の病室や廊下や食堂、理学療法や作業療法や言語療法の各訓練室、栄養指導室、レクリエーション室、外来などで、脳卒中になった人々の様子を拝見したり、話を聴かせていただいたりした。
 このようにして聴き取りをさせていただいた人々は、「みさきの会」から8人、「若葉リハ友の会」から4人(聴き取りをした外来通院中の方は「若葉リハ友の会」の会員でもあったのでここに入れた)、「自立研究会」から11人、若葉リハ入院中から4人の、合計27人であった。

 この段落にこの論文の本質を示す内容があると思われる部分があると理解しています。

 ここで記述いている、“「話すことはないから」と遠慮がちにお断りになった方もいらした。”という部分は、忌憚のない言い分を容赦して頂きますと、先の触れました通りこの聴き取り調査の存在価値が如何に自己本位であることの実証になるでしょう。
 少ない会員数ですから私はここで該当する方の個人の言いたくない事情が分かっております。元々、障害者の体験を発表する場合、正直に対応すると、一般的にその当事者の人生の触れて貰いたくない陰の部分や恥を人前に晒すことになります。特に発症後起こったいろいろの問題は、当事者は言うまでもありませんが、家族内の混乱は経済的にも、また、人間関係も離縁・分離等に変化が起こり、好むと好まざるに拘らず、物質的にも精神的にも多岐に亘る再構築されることが通常です。そして、それがその関係者の人生の晩年に修復し難い瑕瑾(かきん)として重く圧し掛かってることが多いのです。しかし、その現状を一般に開示することに、発症後を寧ろ新しい誕生として自己の積極的構築に邁進する場合には問題はないかもしれませんが、当事者や身内の方々には現状に納得できないと言いますか馴染めないと言いますか、触れてもらいたくないことも多いのです。つまり、そのプレッシャーをどう受け入れるかは、“曲がりなりにも社会学の研究者を目指そうとした者として”の作者の脳卒中者に対する基本的な対応の根幹にある筈ですから、当然その背景を理解していると思います。
 “遠慮がち”という感覚で受け入れている点が気になります。

 つまり、ある意味で、“この聴き取り調査の存在価値が如何に自己本位であることの実証になる”と言いたいのです。
           
  
【追加〜】

 しかし、その言い分は多分に私の当事者としての直接な反応であり、読み終わった後、冷静に考えれば、これはこの論文の存在意義に拘る問題だと思っています。
 著者は言うまでもありませんが、“遠慮がち”という解釈とその感覚についてこの論文を受け容れた関係者は如何評価しているのでしょうか。
 その点については作者自身が、「
目次、序章、第5章、第5節 本論文の構成と意義」のなかで以下の通り説明されておりますので、誤解のないよう本文通り紹介します。

    目次
   序章
   第5章
  第5節 本論文の構成と意義
 ここではまず、本論文の構成について紹介しておく。第一章では、医療社会学から健康と病いの社会学に至る、病む人に関する先行研究を概観し、それらを批判的に検討して、本論文の枠組みを示す。病む人についての代表的な見方として、従来からT.パーソンズの病人役割論やA.L.ストラウスらの病いの適応モデルがあり、近年では、社会構築主義を理論的支柱とした健康と病いの社会学や障害学が台頭してきている。本論文では、それらが、病いや障害を持ちながら、人々が営む<生>の全体性を十分に捉え切れなかったことを指摘し、人々の<生>を、@生命、Aコミュニケーション、B身体、C家庭生活、D社会生活という五つの位相を立てて包括的に把握することを示す。そして、再び<生きる>という方向に牽引する自己の「変容」と、重要な他者との「出会い」というモメントについて改めて定義した上で、これらを、統合性を失い危機にある<生>の各位相を再び結び付ける営みを掴み取るための枠組みとして提示する。

 第二章では、人々の<生>の全体性を五つの位相から把握するという枠組みに従って、脳卒中になってから、各位相がいかなるものとなってゆくのかということを描き出す。それは、脳卒中になるまで、当たり前(=自明)のものとして<生>をかたどっていた各位相が、まったく異なるものとなり、統合性を失って分裂してゆく危機の過程である。その中で、自らの死を思うようにならざるをえない、彼らの痛みと苦しみを明らかにする。

 第三章と第四章では、こうした痛みや苦しみを乗り越えて、「新しい自分」を発見するに至る人々の試行錯誤の体験と、それを反省して新しい経験としてゆく営みを、各位相において検証する。それは、脳卒中になった人々が、自ら危機と定義せざるを得ない状況の中で、試行錯誤しながら、それぞれの回復と受容に向かっている姿を、基本的には時間系に沿いながら辿るというものになる。その際、入院してからの彼ら自身の諸体験と、彼らを支える他者や事物との相互行為のあり様が記述の中心となる。第三章では危機を克服するために可能な限り努力して回復に至る試行錯誤の過程について、第四章では可能な限り努力をしてもなお克服できない時、限定性を持ちながら新しい身体と生活を受け容れてゆく試行錯誤の過程について記述し、危機と折り合いをつけ、分裂した<生>の位相を再び統合する営みとして論ずる。

 そして第五章では、第三章と第四章で具体的に明らかになった、分裂した<生>の各位相を統合してゆく諸々の営みを、重要な他者との相互行為(=「出会い」)と、「出会い」をモメントとする自己の「変容」として改めて考察する。ここにおいて、病いになった人々が、「絶望」の中からやがて「新しい自分」を見出し、病いの後を<生きる>方向を見出すという「希望」に向かう可能性を産出する条件が解明される。

 以上が、本論文の大まかな構成であるが、最後に序章を閉じるに当たって、本論文の意義をふたつほど述べておこうと思う。それらは、第一に、人が病いや障害を持ちながら<生きる>ためには何が必要かということを、社会に対して問題提起している点であり、第二に、痛みや苦しみを抱えて<生きる>ということに再考を促している点である。

 まず、第一の社会に対する問題提起ということについて述べる。今日、医学の進歩や医療の整備ならびに社会的要請を受け、従来なら救命が不可能だった状態の人々の命を救える可能性は飛躍的に高まり、病いや障害を持ちながら生きるという人々の状況は拡大している。また、老いることは病いや障害を伴うことであるが、高齢化の進展も、病いや障害を持ちながら生きる人々の状況を増幅させている。その一方で、あるいはそれにもかかわらず、病いや障害を持つ人々や高齢者は、社会の周辺領域に追いやられ、心理的にも経済的にも不安定なままで取り残されているという状況もある。彼らがそうした状況に憤りを感じていることは想像に難くない。

 例えば失語症になると、聞いたり話したり書いたりすることが本人の意図どおりにいかなくなるので、他の人に自分の意思を伝えたり、他の人が伝えようとしていることを理解したりするのが難しくなり、コミュニケーションがうまくとれなくなったり、テレビやラジオの内容が理解できなくなったりすることがある。東京都の調査(9)では、失語症になって、日常生活で最も困っていることとして、「親族も友人も離れてしまい、理解されない」ことが挙げられていた(東京都高次脳機能障害実態調査研究会2000:54)。その他にも、「働きたいが職がない」、「遠まわしに退職を勧められている」と訴える回答がいくつもあった。また、普段どのように過ごしているかと複数回答で聞いている質問では、8割以上の人が「テレビ」(80.7パーセント)と答えていた。「通院」(56.9パーセント)や「散歩」(47.7パーセント)と答えた人も多いが、「家族との会話」(49.5パーセント)や「昼寝」(42.2パーセント)など、家庭内の活動が上位にきていた。一方で、「仕事」(15.6パーセント)や「スポーツ」(7.3パーセント)や「社会活動」(2.8パーセント)と回答している人は少なかった。「何もしていない」と答えた人さえおり、その割合は11.0パーセントにも上っていた。

 こうした調査結果から、失語症になった人々は「家族の介助を受け、見守られながら生活している様子がうかがえる」と、この調査では分析されている(東京都高次脳機能障害実態調査研究会2000:41)。ストラウスらは、わずか数人を相手にかろうじて保たれるような社会的接触しかない状態を「社会的疎外social isolation」といい、それを憂慮すべき事態であるという認識を示したが(Strauss1984=1987:97)、この調査の分析者にはそうした問題意識は欠如している。この調査結果をより現状に即して分析するならば、失語症になった人々は「家族に見守られながら生活している」というよりも、社会的な接触から遠ざけられて、家の中に閉じ込められている、「社会的疎外」の状況にあるというべきであろう。失語症の人々は、外出といえば病院に行くだけで、毎日、ほとんど家の中で限られた近親者との交流しかないような生活を強いられている。彼らはそのような生活に満足しているのだろうか。もちろん、そうした生活の中に喜びを見出す人々もいるだろう。しかし、意に反してそうした生活を強いられ、「希望」を見出せないで苦しんでいる人々も大勢いるのではないか。この状況は、P.フレイレが「世界とともに、他者とともにありつづける存在、すなわち人間になることを押しとどめられている」といった問題、H.アーレントが他者との応答関係を奪われた「見棄てられた境遇Verlassenheit」といった問題をはらんだものとして捉えるべきではないか(Freire,1970=1979:262、Arendt,1958=1994)。

 それなのに、そうした問題があることさえ、人々―この場合は特に調査に責任を持つ行政当局―から認識されていないのが、この社会の実情である。この調査は失語症を持つ人を対象に行われたものだが、その他の病いや障害を持つ多くの人々も同様、社会的接触から遠ざけられた状況にあり、それを不満に思っていても、それを発する声を持ち得ず沈黙したままにされ、そこに大きな問題があることは見過ごされている。

 しかしながら、人が身体的存在として生きてゆく限り、我々の誰もが、病気になったり障害を持ったりする可能性を持っている。それにも拘らず、病いや障害を持つ人の声は斯くも小さく、医療専門職や行政当局などといった、社会の中で一定の地位を持つ健康で健常な人の大声にかき消されやすい。病いや障害を持つ人々の置かれたこのような状況の下で、脳卒中になった人々が痛みや苦しみを抱えながら<生きる>という経験を明らかにし、そのための課題をひとつひとつ拾い上げてゆくことは、極めて現代的な意義があると考えられる。

  次に、第二の人が<生きる>ことを再考するという点についてである。これは、第一の点とも関係しており、本論文では、病いを持つ人に限らず、現代社会において痛みや苦しみを持つ主体がいかに生きるかというテーマの再考を喚起している。「高度に差異化された複合社会に典型的な生活様式へのかかわりが増大するに連れて、人々は生存の痛みにさらされるという事実に向き合うこととなった」(Melucci,1989=1997:D)とメルッチがいったように、現代社会においては痛みや苦しみを持つ主体がテーマとして浮かび上がってきている。高齢化や超高齢化が進行しているにも拘らず、対応は後手に回り、施設が不足したり医療費が抑制されたりしている。障害者に対しては、「共に生きる」というスローガンが表明されているのに反して、生活保障は次第に切り詰められている。人を勝ち組と負け組に二分する社会的不平等が進行し、ひとたび負け組となると、人としての価値を貶められたりする。高齢である人や障害を持つ人、能力が劣っていたり、社会的地位が低かったり、経済的に貧しかったりする人、すなわち弱くある人々は、この社会において、徹底して<生きる>ことを制限されている。このような状況においては、人としての豊かさ、社会の豊かさなど見出せるはずもない。

 むしろ、弱くある人々が、自らの存在を否定されたような状況の中において、<生きる>ための可能性を紡いでいる姿にこそ、人としての豊かさを見出し、社会の豊かさを構想するヒントを得ることができるではないか。今こそ、痛みや苦しみを持つ主体というテーマを立てることが緊要である。そのためには、近代的主体像である能動的主体だけを前提にしていては難しい。弱い者の痛みや苦しみの中から出発する本論文は、強い者や自立した個人から出発するこれまでの社会学における主体像に対して、弱さを抱えながら、支えあいの中で<生きる>という主体像をオルタナティブとして提示することで再検討を促し、新たな社会を切り開く可能性を展望する。

 ここで作者が言っている、「本論文の構成と意義」は総論ではよく分かりますが、個々の章毎の結論である内容

      第一章 “…枠組みとして提示”
      第二章 “…痛みと苦しみを明らかにする”
      第三章と第四章 “…危機と折り合いをつけ、分裂した<生>の位相を再び統合する営みとして論ずる。”
      第五章 “…「希望」に向かう可能性を産出する条件が解明される。”

 ですが、これが作者の意図通り遂行されるかには聴き取り調査の対象者の抽出が客観的妥当な方法で行われるという前提が不可欠です。
 
多くの脳血管障害者は障害の程度・種類・年齢・社会的立場等々いろいろな因子がありますから、何十万人も存在する現在、それを極々一部の客体の、個人の希望で抽出された客体では実態を把握できないことが、明らかですが、本論文のように、特定のサンプル内での検証はそれなりの意義はあると思います。
 
しかし、その中で敢えて企画した意図は、“遠慮がち”といわれる部分に踏み込んで対応しなかってことによりこの検証は妥当性を失い作者の恣意的集約になったと言ってもいいと思っています。
 歴史上の事件でも、私たちに周囲に起こる事案でも真実の追究は最も難解で重要な要素で、それに対処するにはいろいろの教訓があります。
 浅学の私は、事に中って、その輪郭・内容を理解・把握が出来ず挫折を繰り返して来ました。そのとき(大分前若い頃のことですが)、その私が開いた本のなかに
 “古代のアラビラでは法律の条文は例外のみ載せてある”という意味の文章でした。
 何事に因らず、正攻法で正面から迫る私の平面的考察は、その『例外』に焦点を絞る視点で構築する思索で立体的な実像が見えて来たことがありました。
 しばしば、『例外』は全体の輪郭及び実態を定義します。
 私は、“遠慮がち”と云われる部分を例外と判断しています。

                                                                  【〜追加】

 また、以上の段落で言及している背景は殆ど知りませんでしたが、
ある日、私の障害について聞きたいと言う要請がありました。
 私が承知すると彼女は私の自宅にお出でになり、録音機を設置して妻の同席しているところで妻と共々に質問を始めました。聴き取り時間は恐らく3時間位だったと思います。
 結局このときの内容がこの論文の素材になっていたんですね。
 
確かにその時の内容が忠実に掲載されていましたが、問題はその表示方法でした。

 それは先に言いました通り、この論文を昇順で捲ると私の内容を見つけることにずいぶん苦労しました。勿論、私の能力の問題ですが、それだけで全て片付けられない別な原因がありそうで、苛々していて平常心を失ったか、この論文は設定をはじめ全てが恣意的だと思いました。
 立派な意図で構築された構図に匹夫の勇に絡まれるとは迷惑なことです。まして親切に面倒を見てきたのに恩知らずと思われても当然ですが、視点を障害者に準拠して葦の中から天井を覗く当事者にしては已むを得ない判断として言い訳を考えています。
 何と言いましても、この27名の聴き取り調査の内容が関係する項目に、打つきりにされ配置されていますので、コンピューターに並ぶような頭脳でないと各自の人間像を描写することは大変難しいではないでしょうか。
 勿論、その文脈にはそれなりの意味は分かりますが、例えば
“赤木さんや尾山さんや瀬古さんや田淵さんは…”のように後から後へと関係者のお名前が出て来ますので、当事者の状況を知らない場合は内容の把握が難しいのは私のみでしょうか。
 即ち、分けられて個々の聴き取り情報(具体的には文章内の段落)にナンバーを決めておいて、必要に応じて「配置」のキーをクリックし、それにより各情報をここから集合・並び替え・離反するソフトがあれば問題はありませんが、この初対面の27名の情報配置では命題が優先してその中に適用できる情報を配置しておりその手法では、単なる社会学の研究の対象なら別ですが、脳卒中という疾患の意味を明らかにする究極の目的―(その人にとって、生きているか・生きようとしたいか)―がその影に埋没する蹉跌を感じます。
 私のように内容があまり多くない場合は何とか対応が楽ですが、特に戸田さんの場合は必要と考えています。
 結論から申し上げますと、

  第一章 
  第2節 先行研究の検討
  2−1 病人役割とその限界

 
『…
  パーソンズの病人役割が、病いの後の人々の姿を的確に示しながらも、限界を抱えているのは、このような人々の試行錯誤する営為の中で行われる、新しい<生>への向かい合い方を捉えきれないからである。回復するために可能な限り努力する過程において、たとえ回復という目標が達せられないとしても、彼らは重要な意味を作り上げている。本論文では、パーソンズの病人役割では射程に入ってこない、この点にこそ注目したいのである。』

 “脳卒中になった人々を対象にして、
彼らがその後の生を<生きる>ということをテーマ
 を論じるためにはその前提としてその客体、即ち聴き取りの当事者の全体像の表示(省略でなく)必要だと思うからです。
 つまり、聴き取りした内容に直接触れれば、どんな病気の当事者・経験者は、例えば、(設定自体に疑問がありますが、その議論は別にして)作者が設定した“<生>を成り立たせている位相の五つ”をある程度類推できるものと確信しております。
 
痛み・苦痛・不安は云うまでもなく不自由な闘病生活の学習効果は、場合によっては、医療関係者を凌駕する判断能力を与えるものです。決して有難いことではありませんが。
 
ですから、客体の全体像を表示することが前提であると思っています。
 勿論、慎重な作者はこの聴き取り情報の記述方法について事前に言っておられます。

  序章脳卒中を<生きる>ということ―問題の所在
  第2節 問題の所在

 『…こうして聴き取られた彼らの声は、どのような仕方で記述することができるだろうか。これが、筆者がまず初めに突き当たった問題であった。…
 …近年では、構築主義を理論的支柱とした健康と病いの社会学や障害学などで、病いや障害は個人の問題なのではなくて、社会によって作られたもので、社会のあり方に問題があるなどと議論されている。確かにこうした視座によって、筆者が聴き取りしてきた人々の現実の一部を説明することもできるだろう。しかしながら、それだけでは、筆者が聴き取りをしてきた人々が、脳卒中になってから辿ってきた、人それぞれによって異なる、行きつ戻りつする過程をうまく描き出すことはできなかった。それどころか、そうした視座だけに立つと、彼らの辿ってきた過程を、不当に矮小化することにすらなりかねなかった。
 脳卒中になった人々の辿ってきた病いの過程を明らかにするためには、医学や心理学、病人役割モデルや適応モデル、構築主義や障害学とは異なる語り口を見つけ出さなくてはならなかった。そこで本論文では、彼らから、搾り出すように発せられた声に耳を傾けて、徹底的にその声に寄り添い、彼らによって生きられた現実を、理論で切り刻むことなく掬い取ることを目標にした。かくして、脳卒中になった後の生を<生きる>ということがテーマとなり、<生>の全体性を捉えるという視座が採られることになった。ただし、それはあまりにも広い領域であるので、特に身体や生活が今までとはまったく異なるものとなってしまい、自ら危機としか認識できないような状況にあって、彼らが生き続けることを可能にする条件を明らかにすることを、本論文の中心的課題とした。…』

 聴き取りの姿勢は作者の豊かな人柄が滲み出ていて“彼らによって生きられた現実を、理論で切り刻むことなく掬い取る”配慮は、情報な高尚な質の高さに現れていますが、個人情報を打つきり(下品は単語で申し訳ありません)にして、個人像を見え難くした弊害は、逆に“彼らの辿ってきた過程を、不当に矮小化すること”になってはいないでしょうか。
 各情報が構成するヒトは、「有機体」である以上、断片にしてしまうと生命を失うものと承知しておりますつまり。
 つまり、聴き取りには単なる文章にはない行間に潜む意味がありその立体的表示を失った代償は大きいと思います。
 
  ここで言っておられる“矮小化”は、

  第一章 病いを<生きる>という経験―課題と方法
  2節 先行研究の検討
  2−3 構築主義とその限界

 『…
 障害があってもなくてもそこに差異はない、治りたいと思う気持ちは健常者幻想なので差別的な悪しき思想だと言われることがある(要田1999:32)。「治してほしいなんてお気の毒に」とは、落馬による頚椎損傷で障害を持つようになった映画『スーパー・マン』の主演男優クリストファー・リーブが、元のように治ることを目指し、治療やリハビリテーションを積極的に推進しているのに対して、ある障害活動家が語った言葉である(長瀬1998)。もちろん、治らなくてもよい、治そうと思う努力は無駄だ、リハビリ不要論といった主張が発せられる背景にある、そうした主張をする人々のおかれた文脈や状況を鑑みれば、構築主義的な視座から身体障害が議論されることには一定の意義が認められる。運動として、差別に抵抗するものとして、障害とは社会的に構築されたものであり、ゆえに社会に問題を帰するという戦略は、社会的存在としての人が社会によって抑圧され、規定されていることに対する抵抗として貢献してきた(三島2003)。
 しかし、こうした視座をあらかじめ設定することによって、人々の内なる痛みや苦しみには十分な目配りがされづらく、病いを<生きる>という個々の人々によって異なる具体的な経験が、平坦で矮小化されたものになってしまう。本論文で描き出したいのは、まさにこうした人々の現実の姿である。治りたいと思う気持ち、何年もたゆまずにリハビリ訓練を続ける行為を、本人の視座に立って丁寧に理解しようとすれば、そこには生物医学的に構築されていると言われる、健常者幻想やリハビリとは異なる、<生きる>ための認識と行為が見出せる。重要なのは、あるひとつの理論で病むという経験を説明し尽くしたと思わないこと、あるひとつの理論だけが他の理論に対して優位に立つことを疑うことではないか。病むという経験を理論で切り刻んでしまわないで、具体的な現実の姿として浮かび上がらせるような視座が求められると思う。そして、そうした視座に立つことによって、人々が、病むという経験を通して提示してくれる<生>の意味を掴み取ることができるだろう。』

 と言う文節で説明している内容と思いますが、これは個人情報を“切り刻む(打つきり)”、つまり、各個人像が埋没していることの説明にはならないと思っております。
 こ寧ろ、“病むという経験を理論で切り刻んでしまわないで、具体的な現実の姿として浮かび上がらせるような視座が求める”、であるならば、お願いしたかったことは、同じ脳卒中と一括りにしても、その症状は全く異なることを聴き取り調査から集約して、それぞれの社会・家庭での適応の可能性を明らかにして貰いたいと要望していました。


  此処で私の所感を検証する具体的な資料として、私についての記述内容を表示します。
 聴き取り内容に忠実に掲載されており、作者の暖かい心配りが伝わってきました。
 しかし、当然ですが、私はそのときに特にの質問されていないことに積極的に踏み込むことはありませんでしたし、会話内容からは障害者の触れ難い心理的側面は避けました。と言うより、当時では出来ないと言う方が適当な表現かも知れません。
 論文の中では、「木谷さん」として仮名で載っておりました。

 次の項目の中に入っていました。

  第二章 <生きる>ことの危機―自明な世界の崩壊
   第1節 脳卒中の発症
   1−1 突然の発症


 『…。木谷さんは1997年4月、62歳の時に自宅で脳梗塞になった。木谷さんはちょうどその1ヶ月前に、定年を目前にして30年以上勤め続けた高校教師の職を辞めたばかりであった。退職したのは、長い間の教師経験を活かし、教育に関する本を著そうとしていたからである。脳卒中になったのは、本格的に執筆活動をしようと思っていた矢先のことであった。その日はとても天気の良い日で、木谷さんは自宅の屋上で植物に水をあげていた。妻から昼食ができたことを告げられ、食卓について食事を始めようとしたところ、右手でフォークが持てなくなっていた。そこで左手で、手掴みで食べようとしたら、食べ物を口から垂らしてしまった。木谷さんの異変に気づいた妻はすぐさま病院に電話した。木谷さんは駆けつけた救急車で病院に運ばれ、検査が行われ、脳梗塞を発症していることが分かった。…

   第2節 危機の諸相
   2−2 コミュニケーションの危機―第二の位相

 『木谷さんや江藤さんは、失語症になって言語に重い障害が残った。木谷さんに聴き取りをしたのは、発症してから3年9ヵ月後の時で、この頃には日常的な会話をするのに言葉の不自由さはほとんどないようだったが、ICUから一般病棟に移った直後は、自分では意味のある内容の言葉を話しているつもりでも、相手に全く内容を理解されなかったことが何度もあったという。
 「自分で言葉を喋っているつもりでも、周りの人には通じなかったですね。分かんないことが多くありました。これからどうなるか分からないですね。私は、この病気があること自体、全く分からなかったですね。」(木谷さん)
 急性期の病院からリハビリテーションを専門に行っている病院に転院してからも、木谷さんの失語症はなかなか良くはならなかった。

 「初めH病院に行って、その後、リハビリ病院へ・・・。6月から8月初めに行ったんです。そこで私の言っていること、周りの人、分からないんですね。言語の訓練で行っても、もっと初期的なことが出来ない。小3くらいの国語のドリルをやったんですが、言葉が抜けていて。足したり、足し算や引き算なんかの計算をしたり。言葉より、考えたりする能力が全くなくなっちゃった。失語というと、言葉だけをみんな考えるんですが、元になる脳、使いものにならないですね。8月までそこにいたんですが、いてもしょうがないから帰って来ちゃった。帰っても、自分で言葉が言えない、人が言うことは分かるんですが。困りまして。そんでも何も言えないし、考えることが出来ない。考えること、しゃべること両方出来ない。公園に行きたいと言いたくても、公園の名前を言えない。言葉を言えないっていうことと、分かっているけど言えないっていうこと、両方あるんですよ。」(木谷さん)

 木谷さんが脳卒中になったのは、定年退職を目前に高校教師の職を辞して、自らの経験を元に教育論に関する本を書こうと、意欲を持って取り組んでいる最中であった。教育の実践者から評論家になろうと人生の転機を自ら決め、その目標に邁進しようとしていた矢先に、右麻痺と失語症になり、文章を書くことに支障を来すようになってしまい、望んでいた人生を歩む方途を、突然に余儀なく絶たれてしまったのだ。彼にとって、言葉を失うということは、何よりも辛いことであった。また、木谷さんは、それまで高校生に物理を教えていた教師であったので、訓練とはいえ、小学生がやるような簡単な国語や算数のドリルさえ解くことができなくなったことは、屈辱的なことですらあった。脳卒中の発症は、木谷さんに、自分のそれまでの人生はなんだったのか、言葉を失った自分、考えることができなくなった自分は、自分ではないというような気持ちを抱かせた。』

   
2−3 身体の危機−第三の位相

 『発症してから約4年経つ木谷さんも、急性期の病院に入院中、ベッドに横になっている時、自分の足がないと感じたことがあったと言う。』

   2−4 家庭生活の危機―第四の位相

 『木谷さんの妻は、その当時をこのように語った。
 
 「家族は大変ですよ。打ちのめされますし。救急は生きるか死ぬかでしょう。まさか自分たちに起こるなんて思っていなかったですものね」   (木谷さんの妻)
 
 木谷さんは救急車で病院に運ばれた時、意識混濁状態に陥っており、妻は救急部の医師から「もしもという事もありますから、連絡できる人には連絡しておいて下さい」と言われ、関西地方にいた長男、アメリカにいた三男を含め、急遽4人の息子たちを呼び寄せた。誰もが自分の父親は、いつも元気で少し威張っているのが普通の姿であって、脳卒中になり、生死の境目にあるなどとは想像さえしていなかった。』

   第三章 病いの現われ―<生きる>ための試行錯誤(1)
   第2節 家庭生活の危機からの試行錯誤―第四の位相
   4−1 采配する家族

 『木谷さんは自宅から片道2時間半もかかるような、遠く離れた地方の温泉病院に入院したが、それでも妻は週に2、3回の頻度で見舞いに通った。』

   第四章 病いの受け容れ―<生きる>ための試行錯誤(2)
   第2節 コミュニケーションの困難の受け容れ―第二の位相
   2−1 コミュニケーションのための道具

 『木谷さんは、失語症と右麻痺を併せ持っていた。手足の麻痺はさほど重くなかったので、しばらくすると木谷さんは杖を使って歩けるようになった。しかし、失語症はなかなか良くならなかった。一番困ったのは自分で考えていることが言葉として出てこず、相手に伝わらないことであった。文章も読めなくなったし、計算もできなくなっていた。そこで木谷さんは、リハビリ病院に入院している間、市販の小学校3年生の国語と算数のドリルを妻に買ってきてもらってやってみた。なかなか解けず、特に掛け算は難しくてできなかった。木谷さんは、以前は高校で物理を教える教師であったので、簡単な計算さえできなくなったことにひどくショックを受けた。しかしそれでも、毎日こつこつとドリルを解いていった。
 なかなか失語症がよくならないと憤る日々は、リハビリ病院からの退院をはさんで約9ヶ月続いた。言いたいことがあったとしても、それが言葉になって出てこなかった。発症してから4、5ヶ月の時に、友人からお見舞いの手紙をもらったが、返事を書きたくても書けなかった。何度も返事を書き始めようとするのだが、文章にならなかったのだ。何でも良いから返事を書こうと思い、名詞を幾つか並べてみたこともあった。そして、3日かけて、やっと1枚の葉書を書いた。しかし、それが相手に理解できるような文章になっているのかどうかさえ自分では分からなかったので、結局、書いた葉書を投函することはできなかった。そうこうしている内に、木谷さんは、友人からのお見舞いの手紙に返事を書くことをやめてしまった。
 木谷さんは、教育に関する著書を書こうと思って、定年を目前に高校教師を辞職し、その1ヵ月後に脳卒中を発症したのだが、高校教師時代に既に、教育に関する著書を一冊書いていた。その時、文章はすべてパソコンを使って打ち込んでおり、その腕前はブラインド・タッチができるほどであった。木谷さんにとってパソコンは、ものを書く時の必需品であった。しかし、脳卒中になった木谷さんは、パソコンの使い方をすっかり忘れてしまった。パソコンのスイッチの入れ方さえも忘れてしまった。パソコンを動かしてみようという気持ちになったのは、発症して9ヶ月経ってから、ようやくであった。友人からの見舞いの手紙の返事を、直筆で書くことができなくても、パソコンを使ってなら、もしかしたらできるかもしれない、と思えるようになったからだ。
 パソコンのスイッチの入れ方を忘れてしまった木谷さんだったが、いろいろボタンを押しているうちに何とか起動した。木谷さんは文字を打ち込もうとしてみた。しかしそれは失語症になった木谷さんにとって非常に困難なことであった。失語症になると、漢字は理解できても平仮名が分からないことが多い。濁音はとくに難しい。それでも、木谷さんは何とか文字を打とうと、いろいろなことを試みた。例えば「午後」と入力したい時、木谷さんは「こ」と「ご」の音の違いが分からないので、「ここ」、「ごこ」、「こご」、「ごご」の4つの組み合わせの平仮名を漢字変換させ、「午後」という漢字になったものだけを選択して入力した。「住所」を「じゅうしょ」と入力する時も大変で、この2文字を書くだけで1時間もかかった。この時は、国語辞書を1枚1枚めくったり、見当を付けて開いたりしながら「住所」と漢字で書かれているのを偶然に探し出し、振り仮名を見つけてキーボードで入力したのだという。このように、パソコンで文字を打ち込もうとした初めの頃は、ひとつの単語を入力するのに膨大ともいえるような多くの時間がかかった。しかし、木谷さんは、毎日パソコンに触れているうちに、やがて1行の文字を1時間で書けるようになり、4ヵ月後には数行の短い文章を書くことができるようになった。文章を書けるようになるまでには、ところどころ助詞などが抜けてしまったり、違う文字が入ったりしてしまうこともあったので、妻に添削してもらいながら文章を正しくしていった。このような、失敗してはうまくいくという試行錯誤を繰り返すうちに、念願であった友人への返事の手紙を書くことができた。

 木谷さんは、話すことや手で書くことが難しいという現状を受け容れて、他者とコミュニケーションを図る自分なりのやり方を、試行錯誤しながら見つけ出していったのである。木谷さんは、聴き取りをした時、「今ならふつうに文章が書ける」と自信を持って言っていた。この時、木谷さんはそれまでとは異なる「新しい自分」になったことを見出している。木谷さんは、自分でホームページを作り、そこで、自分の脳卒中になってからの体験を紹介したりしていた。それは、脳卒中になった人やその家族、医療専門職などに見てもらい、何らかの役に立てば良いと思ったからである。このような脳卒中の経験を文章で伝えようとする活動を行いながら、木谷さんは、やがては、脳卒中になる前に目標であった、教育に関する本も書いてみたいと思うようになっていた。

 話せなくても、自分で書けなくても、別のやり方でそれを補う方法を見つけ出した木谷さんは、自分が失語症になったことを受け容れつつ、失語症であったとしても、自分にはまだ文章を書くという領域でやれることはあるし、大丈夫だと思えるような気持ちを持つことができた。』

   第3節 身体の受け容れ―第三の位相
   3−1 移動
   3-1-2 外出

 『…失語症になった木谷さんは、電車に乗る時、自分の乗った駅と、降りようと思っている駅の書かれた紙をいつも携帯し、困ったら駅員などに見せて教えてもらうようにしていた。…』

   第五章 「出会い」と「変容」―「新しい自分」になる
   第1節 「出会い」―重要な他者との相互行為
   
1−3 同病者―仲間

 『…。木谷さんも、リハビリ病院に入院中、孤立感を味わっていた。木谷さんの入院していた病院では、廊下やホールでは同病者の輪ができ、話をしたり一緒に自主訓練をしたりしていたが、木谷さんはそれを「同病相憐れむ」と不快に感じており、その輪の中に入りたいとは思わなかったのだ。木谷さんも3ヶ月の予定で入院した病院を、1ヵ月半で早々に退院した。江藤さんや木谷さんは、入院した病院では、同じ病気になった人と「出会い」を経験することはなかった。…』


 最後にお願いがあります。
  障害者が言うことはおかしな事ですが、脳卒中対にする取り組みは、多面的な手法や考え方が交錯しております。
  治療・研究・医療技術・施設・設備等のハードは勿論バリアフリーやユニバーサルデザイン等の行政・マスコミの対応にも改革が進んでいると聞いておりますが、私の周囲の障害治療は遅々として進んでいるとは思えませんし、医療費の個人負担はあがりあまり良い情報がありません。せめて、障害手帳の見直しをお願いしたいと思っています。
 高次脳機能障害失語症は、私は、HPでお願いしていますが、手帳のよると重症でも3級を越えることはありません。
 手帳は一般的にはいわば障害の程度を表すと受け取っていますが、実際は脳卒中の後遺症の適用にあたって、周囲の環境に適用し生き抜くことが能力が最も阻害される失語症の臨場感のある実体が配慮されていないことになります。
 今後関係機関の対応が進むと期待しておりますが、作者の言われる<生>をなり立たせている位相に具体的に意図的に組み込むことが肝要と考えております。


   第一章
   第4節 調査の概要―27人のプロフィール
   4−3 27人の特徴
 
 『…。復職した人の数は14人で、全体の約半数が復職していたということになる。会社員に限れば7人と、ちょうど半数が復職していた。ただし会社員として復職したほとんどの人は「自立研究会」の会員で、脳卒中後の復職や社会参加を実現させようとするこの会の特徴を表していた。一般に脳卒中後に会社員として復職することは、困難で稀であると言われている。ちなみに「みさきの会」会員で会社員として復職した人はいない。自営業や専門的な職業の場合、障害の程度にもよるが比較的復職しやすいといわれているが、「みさきの会」でも、自営業や専門的な職業をしていた人の内の何人かは復職していた。…』

 この中で再就職について言及しているが失語症の場合はごく稀であり、あっても聞いたところによると条件付であった。
それが現在の現状ではないでしょうか。

 この論文から多くのことを学びました。大いに啓発され感謝しております。
 特に各章毎に設置してある(註)にある、リハビリテーション医療に解説、私もお世話になりながら殆ど記憶にないICU(集中治療室)の心の篭った詳細な描写・説明、なかなか通常では得られない貴重な知識になりました。
 本来なら、脳卒中の実体を解明するために、多種類役割分担のある複数のチーム編成による多方面の資料収集と立体的な検討する病院・大学・研究機関の任務をお一人で膨大な時間と労力を費やし完成したことに敬意を持ます。

  しかし、敬意を持ちつつも、矢張り、主張の根幹である資料、つまり聴き取り調査の対象者の情報が、作者お一人の取得であるが故に、一方向に偏り、従って対象者の人間像とその空間が平面的になり、本来なら立体的存在の陰影にある障害を負った人生の悲哀・主張・喜怒哀楽・プライドと情熱等が臨場感を持って見えてきません。
 最近巷におこる犯罪の報道には、幾多の担当者がおり、その犯罪の関係する問題が生ずると国内国外に拘らず即座に調査しそれに基づく専門家の解説付きの報道が繰り返し行われますが、それに要する負担は大変なものですが、それでも真実は闇の中にあるのが多いとですからこの問題に対応することは難しい問題です。しかし、概要は見ている人たちはそれなりの目的で理解できます。
 私は読み終わった後、ずいぶん時間が経過していましたが、

 第5節 本論文の構成と意義
 で詠われる本論文の主要な命題である

 「近年では、社会構築主義を理論的支柱とした健康と病いの社会学や障害学が台頭してきている。本論文では、それらが、病いや障害を持ちながら、人々が営む<生>の全体性を十分に捉え切れなかったことを指摘し、人々の<生>を、@生命、Aコミュニケーション、B身体、C家庭生活、D社会生活という五つの位相を立てて包括的に把握することを示す。そして、再び<生きる>という方向に牽引する自己の「変容」と、重要な他者との「出会い」というモメントについて改めて定義した上で、これらを、統合性を失い危機にある<生>の各位相を再び結び付ける営みを掴み取るための枠組みとして提示する。」  

 が明確に確認出来ず、
 
古典落語の有名なお噺の一つ『目黒の秋刀魚』を思い出しました。

 その内容は、『古典落語(上)』興津要編 講談社文庫 の一部によると次の通りになります。

 お殿様がご家来を連れて、目黒不動参詣をかねての遠乗りにでかけました。目黒(その頃、江戸の郊外だった)に着かれたのはお昼近くのことでした。
 近くの農家から、秋刀魚を焼くいい匂いが漂っております。その時、ご家来が「かような腹ぺこの折りには、秋刀魚で一膳茶漬けを食したい」といったのを聞きつけたお殿様、「自分もぜひ秋刀魚というものを食してみたい」とご家来に所望した。
 さあ困ったご家来衆。「秋刀魚とは下魚でございますゆえ、お上のお口にはいりますような魚ではございません」
 といったものの、お殿様のお言いつけではしかたがない。何とか農家のおじいさんに頼んで焼いた秋刀魚を譲ってもらうことにした。
 お殿様は、生まれてはじめての秋刀魚がすっかり気にいられた。お腹が空いていたことも合わさって忘れられない味になってしまった。
 ところが屋敷に帰っても、食卓に秋刀魚のような下魚は出てこなかった。
 ある日のこと、親戚のおよばれでお出掛けになりますと「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。なんなりとお申し付けくださいまし」というご家老の申し出に、すかさず秋刀魚を注文した。
 親戚は驚いて、日本橋魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せた。このように脂が多いものをさしあげて、もしもお体に触っては一大事と、十分に蒸したうえ、小骨を丁寧に抜いて、だしがらの様になった秋刀魚を出した。
 「なに、これが秋刀魚と申すか。まちがいではないのか?
 たしか、もっと黒く焦げておったはずじゃが・・・」
 脂が抜けてぱさぱさの秋刀魚がおいしいはずがありません。
 「この秋刀魚、いずれよりとりよせたのじゃ?」「日本橋魚河岸にござります」
 「あっ、それはいかん。秋刀魚は目黒にかぎる」 

 この噺の舞台になっている「爺々が茶屋」がある茶屋坂は江戸から目黒への通り道の1つで、富士山が望める非常に眺めの良い所で広重の絵にも描かれていますが、今では坂の周囲はことごとく開発され茶屋の湧き水は既に涸れ往時を偲ぶものはありませんが、目黒川に続く斜面には将軍の鷹狩場を彷彿させる景観があり、私は目黒川沿いには西郷山公園・菅刈公園があり散歩コースとして行っていましたので親近感がありました。
 その上、年齢の所為かこの噺は聴いているうちについつい釣り込まれて時間を忘れてしまうほどでした。“講釈師見てきたような嘘を言う”と言われるが、恐らくその背景には聞き手を納得させる何かの真実があると思っています。

 ここまで言及しますと私の感じているおおよその点はお分かり頂けるとおもいますが、私の感じ方がこの論文に汚点を作ったり、作者に瑕瑾を残すことのないようと念じて触れました。

 この論文の編成にいてダイレクトに申し上げますと、社会学の博士論文としての考察が先行し、その素材(客体)の存在意義が希薄になっていることだと思っています。

 「殿様に万一のことが在っては、大変と、“焼いた”秋刀魚を更に“蒸して、“骨を取っり”“油を抜いて”殿様の食膳に供えた。併しその秋刀魚に箸をつけた殿様は、過日農家の庭先で食べたじゅうじゅうと煙を上げていた、秋刀魚とは 全く姿、形、味いづれも、全く異なったものであるものであった。」

 上に段落でお分かりと思います。

 若い学者の飛翔を夢みつつ明日の空をみました。そして少々つまった声でエールを送りました。

 、

                                                     06.7.7.



この論文は大幅に加筆・修正され発刊されました。

      発 行 2006年11月8日 第1版第1刷
           発行所 株式会社 青海社
  にて
          『脳卒中を生きる意味』−病と障害の社会学―
  と言うタイトルで発刊されました。

 私は内容は読んでいませんが、巻末の「おわりに」には“紅葉のニューヨークにて 2006年10月 ○○ ○○子”という作者のコメントが載っています。

 それによると

 「本書は、東京大学大学院人文社会系研究科に提出して博士論文(社会学)、「病の経験と主体の『変容』−再び〈生きる〉ために」(2006年3月)を元に大幅に加筆・修正したものである。また、筆者のこの研究は、日本学術振興会より科学研究費補助金(特別研究員奨励費)を受けた。長期にわたって筆者の聴き取りに協力してくださった、脳卒中になられた方々とそのご家族に心から感謝を申し上げ、本書を捧げたいと思う。
                                                                …」
   でした。

  

                                                     06.12.15.

        

 

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