その後、介護保険について私なりに学習した情報のもとで地域包括支援センターに行き、色々お聞きしました。
 区の職員と違い現場の生活感が幾分伝わってくるような感じでした。

 担当の介護福祉士の方は“介護サービス事業者ガイドブック”を開いて、介護サービスを受け入れてくれる該当部署とその機能を親切に説明して下さいましたが、私が、主に、関心のあった失語症者の対策には何の収穫がありませんでした。
 つまり、元々登録事業者に言語聴覚士を配置しているところが一つもありませんでした。

 しかし、それはサービスを受けたい失語症の方が皆無ではなく、寧ろ、言語聴覚士を配置する事業所の都合によることは、介護保険事業の成り立ちとその経営実態を考えれば、浅学な私でも分かります。

 「言語は難しいですよね。
前は言語聴覚士がいる診療所が登録してありましたが…。
 
その後失語症の方がお出でになり、私たちも他の区の事業所にお願いして言語聴覚士の派遣を依頼しましたが、結局うまくいきませんでした…」、
 
とそのときの経過を説明してくれました。

 言語指導と言っても個人差がありますから、一概には言えませんが、言語聴覚士と会って、30分乃至1時間という限られた範囲で指導を受けるとなると、失語症について一度でも拘った方ならその効果を期待する方はいないでしょう。

 「宿題がありましてね。大変なようでした。」
 
当然、黙読・音読・発音・作文・発声・計算・読解等々入院当時与えられた宿題に挑戦した経験は誰にもあります。

 結局、その方は短期間で止め、支援センターとしてはいろいろ相談して区の「失語症友の会」を紹介したとのことでした。

 私が最も懼れていた結果でした。

   その後8月になりますと、秋季のテニス大会が始まりましたので私は随分忙しくなりました。

 それは、最近の会員が増加による運営の煩雑にも原因にもありましたが、何と言っても、主な原因は、以前は主な職業の合間に行っていた業務でしたが、障害を受けてから現在では事務的な連絡会を含めて、毎回、行事毎に緊張して準備しないと行動にならない状態で、時間と労力を要したことになったからです。

 体育協会及び教育委員会との調整、要項・申込書・登録書の発表等事務、問い合わせの対応後、申込書によるドローの作成、その結果をインターネットによる公開発表が8月の仕事になります。

 中でもドローの作成には神経を使います。
 会員は小さい連盟ですから会員数は約670名ですが、ドローの作成に個人名の記述には常に煩います。
 種目によってはドローに140名の氏名を配置しますと、事務処理に精通しているブラインドタッチでパソコンを操作する方なら造作もないことですが、私にとっては至難な業でしたからドローの組み込みは、役員の理事がドロー会議を経て組込み・設定しますが、最終的にインターネットでそのドロー及び施行の段取りを設定・発表を行ないます。

 秋季には使用可能なコート数では参加数が多く、特にシングルスは毎年、9.00〜21.00で消化できない状態でした。他に種目がいろいろありましたから、8月から10月と飛んで、11月まで休日で延8日かかりました。

 勿論、運営には各理事も仕事を持っての合間の行事ですから、ご苦労は大変でした。

 また、その間、当連盟には最も重要な影響をもつ協会の「大会開催規程」の審議に関する重要な会議が入り、私には特に神経の休まらない期間でした。
 しかし、この会議が無事終了できましたことは、教育委員会及び協会事務局のご協力と感謝しております。

 また、この間、10月1日は渋谷区に行政が誕生してから76年の「渋谷の日」で、毎年通り24人の区政功労者の表彰式が行われました。

 この功労に値する方々は地元の有力者で私には無縁と思っていましたが、意外な事に出席の連絡が来ました。

 私はテニス連盟の創立以来から30年を拘っていますから単なる年功序列として受託しましたが、隙間風のような馴染み難いし寂しい空気を感じていました。

 それは、私は区内に住んで40余年になりますが、区税を納入し、必要手続きを行い、区ニュースを見て対応するだけで、コミュニティー(community)の中での存在意義をあまり自覚したことなかったからです。
 町会内の交流と言われるような接触は殆どありませんでした。
 私の隣のマンションの住民を入り口が別方向ですから、稀にカーテン越しに動く影はお見かけしても、姿と声も分かりません。
 区民としての存在は全てと言っても良い位区役所を経由しておりました。

 従って、私が発症後ある程度ものが言えた時に区役所の障害課で色々相談したのです。
 しかし、失語症友の会で困った時の相談は、各団体の内部の問題として相談にはのれないと相手にされませんでした。
 ところが、当時の障害課の係長は、幸運にも、テニス大会を通して私の知り合いの方でしたから、言語障害以前の私を承知しておりましたので、親切に対応してくれ障害者団体のうち失語症に関する必要な書類を提示され、私はそれをコピーし、既にその係長から連絡してあった障害課会館の監理係長に会いその方の誘導で障害者団体の事務局に行き、障害者団体の活動内容を知りました。

 その内容とそれについての対処は既に記述しましたが、残念な事に担当障害課長は私のお願いには正面から取り上げる気は全くありませんでした。

 また、別な機会でしたが、
 
特定な団体に所属していない私としては、失語症によらずそれぞれの障害に対して多忙な区職員に負担をかけないように自立する区民のピアカウンセラーの養成を希望していましたので、隣の区の取り組み等を、曖昧ではありましたが、持参し、ピアカウンセリングについてお願いをしました。
 
そのときには障害課長への地元の議員の紹介・同伴をお願いしましたので、その所為かも知れませんが、慎重な応対でしたがその結果には何もありませんでした。

 私は折に触れて横浜、神奈川県内の障害者の集いに参加する機会が多くありました。
 そこでは中途障害者地域活動センターが各地域の住民の連携をもって活動して様子を障害者交流会で直接・間接に聞きます。

 ときにはその人たちでラジオの障害に関する番組に出演しておられ、いろいろ相談や助言をしておりました。その方から連絡があり、失語症のことだから一緒に考えてくれと相手の家族のメールを送られたこともありましたが、また別に、そのなかに「あなたの区内だから聞いてくれ」と電話がありました。
 電話によると脳溢血を倒れたが今は退院して自分のマンションに住んでいるが、今後のあり方に相談したいという事でしたが、言語不明瞭な私の説明では十分ではなく、障害課を紹介しましたがその説明に苦労しとことがありました。

 また、「脳の不思議を通じて自分を知ろう」という池谷裕二氏の生涯学習課の主催・文化講演会の開会挨拶で当時の教育委員長は“私の母が脳梗塞になり失語症を発症した。先生の脳のお話はとても勉強になると思います…”、言われましたね。

 そのようなことに関する問題について触れると課長は“横浜は渋谷よりずっと人口が多いですからね、障害者も多いのですよ”、それ以上の説明はありませんでした。

 ですから、今回の受賞は家族は大変喜びましたが、場違いに来たような感じは否定できませんでした。

 其処で私がはからずもお会いできた機会でしたが、今回の区政功労者には7名の町会長の次に4名のシニア倶楽部の会長が並んでいました。勿論、4名の民生委員の方もおられました。

 シニア倶楽部とは以前地域の町会を母体としている老人会と呼ばれていたと思いますが、そのシニア倶楽部の代表の方が当日の24人の代表として謝辞を述べた方4人(その中で知名度の高い方は学校法人服部学園理事長;服部 幸應氏がおらます)の1人として言われました内容の中で、「現在ではシニア倶楽部として命名を変更して活気を持ち今では4000人の会員をいる」とのことでした。

 区の記録によると

  【 シニアクラブは、

 スポーツやレクリエーション、教養講座、ボランティア活動などを通じて、生活を豊かなものにするための自主的なクラブです。

 概要

 知識や経験を生かして様々な社会活動を行い、いきがいや健康づくりなど、生活を豊かにするためのクラブを自主的に作っています。

 クラブ数  43クラブ
 会員数  約3,700人
 対象   おおむね60歳以上

 主な行事

 健康活動  ゲートボール大会、グラウンドゴルフ大会、ミニハイキング
 教養活動  作品展、教養講座・囲碁将棋大会、各種教室
 社会奉仕  早朝清掃、空き缶収集、雑巾づくり                       

 
 ですが、私が注目したのは介護保険とのかかわりです。

 それは、区は20年4月、委員31名で構成される「介護保険事業計画等作成委員会」を設置しましたが、そのなかの公益代表としてシニア倶楽部連合会、民生委員協議会の方が参加しております。その該当者の方が今回の区政功労者ですから、

 「介護保険事業計画作成委員会」の行っている高齢者保健福祉計画・介護保険事業計画の策定には根幹に拘る方々でから至極当然なことです。

 障害課と介護課の存在感の明暗が反映しているように感じました。

 それは、障害課と介護課の存在感の明暗が反映しているように感じました。

 障害者のリアビリに影響が多いからです。

 私たち脳出血、脳梗塞等血管障害者は麻痺の部位や程度は違いますが、必ずと言っていいくらリハビリを要します。
 勿論、健常者でも健康を維持するには規則的なリハビリは不可欠ですが、障害者の場合は発症後のリハビリによる回復は急速に進みますが、ある時間を過ぎるとその回復曲線は直線になりその作業の効果は思うように期待できないようになります。
 従って、病院の経営等の事情により、この期間を過ぎた患者は医療機関では個人差はありますが、平成18年診療報酬の改定により、病院でのリハビリは原則180日とし、その後は介護施設で行う
ことになりました。
 そして、その後多くの要請があり、平成20年診療報酬の改定、つまり「回復の見込み」という医師の判断があれば180日を越してもよいということになりましたが、患者の“退院率”いう制約が新たに設定されましたので、矢張り、病院でのリハビリは難しいのです。

    ≪退院率;1年以上の在院患者から退院する者の数を1年以上の在院患者数で除したもの。
           退院率に1年以上の在院患者数を乗じて得た数は、1年以上の在院患者からの
           毎年の退院数となる。
      退院率が低いと診療報酬が減額し、また、リハビリ難民がでると言われています。           ≫

 なお、言うまでもありませんが、障害者の回復はリハビりを怠ると元に戻ることは最近特に注目されています。
 従って、介護施設でのリハビリにはそれなりの期待があります。
 つまり、区民として非該当を含めて受容を考えるときと感じましたから。

 そこで区内でその委員会の素案の説明会が5回行われましたので私もそのうち近い会場でお聞きしました。
 総論は国が出している法体系に準じますからあまり問題に触れても影響はないと思いますしよく分かりませんが、知りたい各論は時間のも無いのでその場の課長にお願いして、後日、伺う事にしました。
 つまり、各論として、例えば、次に表示しました区の“基本目標”として、何が行われているか、具体的な説明を知りたいと思ったからです。

 【 基本目標

  自立を支援する

 年齢や障害の有無にかかわらず、自立して住みなれた地域の中で暮らすことは、すべての区民の願いです。たとえ、病気や障害により介護が必要な状態になったとしても、もてる能力を最大限に活かしながら、安心して暮らせるよう区民を支援するしくみをつくります。

  介護の予防を重視する

 健康の持続につとめ介護が必要となる期間を最小限にとどめるために、介護予防は重要です。そのため、ねたきり状態や、介護の重度化を予防するための体制の推進に努めます。

  自己決定に基づく介護をすすめる

 人間の尊厳をもって生きるために、必要な介護サービスを自ら選択する自己決定が重要です。区民が充分な情報により自己決定できるよう情報提供の体制を充実し、また、区民の権利が侵害されるようなことがないよう、利用者権利保護の体制をつくります。

  多様なニーズに応じるサービス提供の体制をつくる

 介護サービスのニーズは、個人により多様なものとなっています。様々なニーズに対応して、質の高いサービスを総合的に提供していくために、区民、事業者、行政が協働し、支えあう、多様なサービス提供基盤をつくります。

  高齢者の社会参加をすすめる

 高齢者の経験と知識を活かして、社会参加することは地域の活性化にもつながります。また、高齢社会の到来により、区民は介護サービスの利用者であると同時に、担い手としての役割も期待されます。区民がいきいきと希望や生きがいをもって豊かに暮らせる社会の実現を図るため、社会参加の場と機会を設け、また、妨げとなるものを取り除き、区民の社会参加を支援していきます。

にどの様な影響があるか期待をもってまちます。

   施策の体系

  ― 計画を推進していくための施策展開 ―

  1.高齢者を地域で支える体制づくり

 1.在宅介護支援センターの充実
 2.地域住民による支援
 3.在宅医療との連携構築
 4.福祉教育の推進
 5.ともに生きる社会の形成

  2.介護保険事業の円滑な実施に向けて(介護保険事業計画部分)

 1.介護保険事業の健全な実施
 2.介護保険上乗せサービスの充実(一般福祉施策)
 3.要介護認定の公平性確保のための体制
 4.介護保険事業計画を推進していくための区民参加のしくみ
 5.利用者本位のサービス実現に向けて個人情報の保護
 6.サービス提供事業者との契約のあり方
 7.サービスの質の確保のための方策
 8.負担の軽減
 9.介護保険特別対策

  3.介護予防・自立生活支援サービスの充実

 1.介護予防サービスの充実
 2.自立生活支援サービスの充実

  4.痴呆性高齢者対策の推進

 1.痴呆の予防・重度化予防
 2.相談体制の充実
 3.権利保護と自己決定の支援
 4.介護者への支援
 5.グループホームの設置

  5.高齢者の社会参加の支援

 1.生活の安定と向上
 2.生きがい活動と社会活動への参加促進
 3.社会参加活動を行うための場の提供
 4.移動(移送)手段の確保

  6.高齢社会を支える基盤の整備

 1.ハード(施設)の整備
 2.ソフト(人材)の整備

  7.高齢者が安心して暮らせる居住環境の整

 1.区民が安心して住める住宅の供給
 2.安定した居住継続のための支援
 3.まちづくりと連動した住環境整                 

                                   

 しかし、私が突然行ったので、対応に出た課長は挨拶をして会議があるのでと、広報の担当者を紹介して退席しました。
 紹介された担当者の高飛車な態度に怒りを抑え、不愉快な後悔を感じ何の収穫なく帰りました。
 今回も渡された、パンフレット“介護保険”、と“介護サービス事業者ガイドブック”を受け取りました。
 これで5冊になりました。しかし、今回はお読み下さいと、「渋谷区介護保険事業計画等作成委員会」中間のまとめ(案)がありました。説明会で頂いた「中間まとめ」の原本のようです。

 私は虞々開きました。

 その中には

   【         第一部 計画改定に向けての基本的考え方について

   1 計画改定の背景・性格および目的
  …本作成委員会では、介護保険制度の発足とあわせて、平成12年3月に高齢者福祉施策と介護保険事業を総合的に展開するため、新たにスタートする「渋谷区介護保険事業計画(第1次)」と「高齢者保健福祉計画(第二次)」を一体の計画(以下、「第1期計画」といいます。)として策定した経緯があり、さらに平成15年3月には「第二期計画、平成18年18年3月には「第3期計画」と改定が行われました。

  本作成委員会では、「第4期高齢者保健福祉計画および介護保険事業計画」(以下、第4期計画といいます。)の策定にあったて、国の動向および都心区のもつ特性等を考慮しながら、これまでの渋谷区が取り組んできた高齢者保健福祉施策および介護保険の現状と課題を一つひとつ客観的に分析・検討を行ってきました。渋谷区の長期的視点に立ち、今回の法体系の変更に対応しうる高齢者保健福祉施策の推進と、介護療養型医療施設の全廃を見据えた介護保険事業の安定した運営には、高齢者保健福祉計画と介護保険事業計画の両計画を体系的かつ一体的な枠組みの中で展開し、さらに一体的な計画として策定することが望ましいと考えます。               
                                           

 私には感動的文言なですが…
 今回総合的に展開される高齢者福祉施策と介護保険事業の策定案でどれだけバリヤーされるか私には見通しがありませんし、各論が見えません。

 また、「渋谷区介護保険事業計画等作成委員会」の委員31人のうち、“被保険者代表”という方が、介護保険運営協議会委員から7名、区長推薦8名計15名おりますが、“被保険者代表”は、第1号・第2号とも区民で介護保険の受給資格者であれば該当すると思いますがその委員になった経過とその方の経歴が分かりません。

 私はこの整備されたと思われる一連の計画中で、
 矢張り、何か欠落している…

 …私には今までは自覚していなかった迫りくる脱落感を感じました。
 勿論、区民としての参加義務を指摘される問題として考えますが、
 
矢張り、原因は恐らく私の内なる意識かもしれません。

 例えば、

 ““介護保険料は年金から自動的に収めるので直接には介護制度に触れることはありませんが、実際そのサービスを受ける側になった場合、程度の差はあっても何かの介護を必要とする状況がありますから、この制度にはその有益な施行の配慮が施されていると思いますが、恐らく、誰かのホローが必要になると思います。

 そのような不安定な立場に賢明な見通し知りたい…それを考えておくのが礼儀と弁えていますから。

 何と言っても、私にとって不可欠な障害手帳ですが、私はその障害手帳の所得に大変苦労しました。私の脳梗塞の医療に携った関係者のリハビリについての充分な配慮があれば極あたりまえの問題ですが、縦割りのシステムでは私と同じことが多く起っているのに驚きます。私が手帳を申請し、取得できたのは、退院後2年後でした。

 また、実際の介護保険で介護の業務に携る人・機関は区役所の職員ではなく、認可済み・登録業者ですから、その受けるサービスの内容は事業者の充実度に影響をけると思われます。

 パンフレット、“区の介護保険サービスガイドブック”によると、

 「納得いくサービスを受けるためによりよい事業者を選びましょう。」という項目には、

 事業者を選択する際に最も大切なのは、サービスの内容について十分に把握しておくことです。よりよい事業者を選ぶためには、地域の評判を聞く、実際に施設を見学する、事業者の評価が公開されているときにはそれを参考にするなど、積極的に情報収集を行うことも大切です。

 自分の合った適切なサービスを受けるために、事前にしっかりと確認しておきましょう。

       よい事業者を見分けるポイント

    1. 介護の具体的な内容が書かれた書類(重要事項説明書)を渡し、わかりやすく説明してくれる
    2. 利用したいときに事業所が開いている(日曜日や連休、年末年始など)
    3. あなたが受けたいサービスを利用できる(重要事項説明書にも、できることが書かれている)
    4. 事業所の職員に人数や資格が重要事項説明書に書かれている
    5. サービスの利用日や曜日を変えたいとき、希望に沿って対応してくれる
    6. 介護保険が使えるサービスと使えないサービスが、重要事項説明書にはっきりと分かるように書かれている
    7. 利用料と支払い方法またキャンセルしたときの料金など、重要事項説明書にわかりやすく書かれている
    8. 苦情や相談、意見を受け付ける担当者がいる
    9. 体の調子が急に悪くなったときなどに、どうしたらよいか、重要事項説明書にわかりやすく書かれている
    10. 事故が起ったときにどうするのか、お金がかがったときにどう補償されるのかなど、重要事項説明書に書か
      れている

 これを見ると良く分かります。

 此処で言っていますが、“地域の評判を聞く”ことは肝要なことは言うまでもありません。

 また、瑣事に亘って恐縮ですが、介護保険のサービスは各事業所の設定によりますから、個々の詳しい内容には役所の職員では分からないのは当然です。従って、説明者は最初からその状況を踏まえての説明があれば問題が生じないと思いますが、無知な区民の質問には、“全て答えます”という気負いすぎた態度がお互いの理解の障碍になっていると思っています。””

       この様なことは随分大切なことではないでしょうか。
      
 と言うことより私自信が反省しなければならないと胆に銘じています。

 何と言っても介護保険での行政の役割は、認定調査・審査・判定であると思っております。

 急速な少子高齢化で家庭の介護力が一気に低下しているが、そのスピードに施策が追いついていけない、独居老人の孤独死や老老介護が珍しいことはない、という状態ですから、要介護認定と施策は重要度を増していると思っております。

 特に渋谷区の【基本目標】“自立を支援する”、“介護の予防を重視する”、“自己決定に基づく介護をすすめる”は注目に値すると思っています。

 しかし、これまでの私の記述でご想像通り、今までの渋谷区の障害者に対する対応からすれば疑問が棄て難いのですが、今回私が介護保険に拘った理由は「失語症について考える」ことの一環のとして、“失語症がどのように受け入れられているか”を知る限られた絶好な機会なのです。

 既に諦めているからでしょうか、最近はあまり聞きませんが、高次脳機能障害である失語症が重症であっても障害手帳の程度等級表では、「音声機能、言語機能、又はそしゃく機能の障害」の2種3級という認定は、その不合理を指摘されていますが、相変わらず改正されていません。肢体不自由には細かく査定してあります。肢体1級で職場復帰している方にお会いする機会は多いのですが、重度の失語症者の社会復帰は不可能と思っております。

 その点では介護保険の在り方の凡その概要は厚生省のHPにある、 “介護保険制度について 介護保険制度Q&A”を読むと分かります。

それは“国立社会保障・人口問題研究所”の発表資料通り、我が国の人口とその推移を計って行う施策ですが、各個人は全体の傾向との間には幅があります。その分布率の確率が高い本流は判り易いのですが、元気そうでも人知れず悩んでおられるかたがます。

失語症の場合、案外、肢体には耐える力をお持ちの方がおられますので、【基本目標】にどのように反映されているか、また、家族内ではそれぞれの手法でコミュニケーションは十分執れていますが、訪問調査では、それをどう「意思の伝達について」という項目に組み込むか分かりません。

 当事者にとっては最も重要ですが、この判断が必ずしも公正な基準になっているか如何か疑問に思うことがあります。

 介護保険に依る認定は区からの指定された調査員の訪問調査でコンピューター判定と医師の意見書のもとに「介護認定審査会」で審査し、要介護状態区分の判断が行われるという事ですから、被保険者としては客観性を増していると思われますが、私には、矢張り、割り切れない疑問が残ります。

 勿論、専門調査員ですから患者に合えば即座に凡その判断がありますから、それに基づいて、肢体麻痺、寝返り、起き上がり、歩行、片足での立位保持等の身の回りから、今日は、何日ですか、何曜日ですか、年齢は何歳という認知度の意識調査を行い、恐らく患者の状態は特記事項に記されていると思います。

 しかし、私は専門的知識が不足していますので将に誤解が招くかもしれませんこの点はこれ以上の言及は避けますが、お会いした調査員の質問の観点では、介護という観点の解釈が主に“他人の働き掛けの必要度”に依る様に感じました。
 起き伏しには対応でき易い沈黙目かちな失語症者は介護の認定にはあまり対象にはならない、つまり、介護度が低いといった感じでした。

 それは調査員の個人的な問題ではなく、コンピューター判定に使用されるソフトに集約されている介護の在り方という観念にあると思っています。

 キャリアブレインによれば

 「厚生労働省の「要介護認定調査検討会」は2006年10月10日、初会合を開き、利用者の要介護度などを決める「要介護認定」の見直しをめぐる検討を開始した。今年4月の介護保険制度の改正では、従来の要介護1が要支援2と要介護1に再編されるなど様変わりした。同検討会では、こうした制度改正に合わせて要介護認定の仕組みを技術的側面から見直し、判定の精度向上を図る。また厚労省は、全国約60の介護保険施設を対象とする「高齢者介護実態調査」を5年ぶりに実施。この調査結果を、申請から要介護認定までの流れ(認定ロジック)を見直す際の判断材料にする。同省は実態調査の実施から新たな要介護認定スタートまでの所要時間を「最短3年」としており、早ければ2009年度からの第4期介護保険事業支援計画にあわせて新しい仕組みに切り替わる可能性もある。」
 と云うことです。

 また、キャリアブレインの情報ですが、“要介護認定、調査項目は74”という項目を見ますと、

 「介護サービスの内容を決めるために必要な「要介護認定」をめぐっては、一次判定に使用する調査項目の見直しが課題となっていた。利用者の実際の状況と違って軽度に判定される場合があるなど、要介護認定の一次判定に使用するコンピューターのデータが古いことや、調査項目が多いため調査員の事務負担を軽減する必要性があることなどが指摘されていた。」

 として行っている認定の基本的考え方とより良き対策の内容を知ることが出来ます。

 当然、“介護”という解釈には一定のコンセンサスを携えての検討会ですから、客観的な結論であることは疑いませんが、障害者がその立場で対応すると、幾分、言い分にずれがあるように思います。

 例えば、重複ますが、「意思の伝達について」という部分です。

 失語症の場合は、同じ様に会話に戸惑うと言っても、発症まもなくの急性期といわれる時期、回復期といわれる時期、症状が固定されるといわれる慢性期といわれる時期は実質コミュニケーションの内容は大分異なります。回復曲線の勾配が直線に近づくと、慢性期で安定し、特に家族のような極親しい間には以心伝心、或いは、阿吽の呼吸と言ったような手法が定着します。
 よく失語症を語る会で家族が呼ばれて、経過とご苦労、現在の状態を報告発表するときには、すべて定着した安定期の方が対象になっていますから、失語症は認知症ではありませんと宣言していますが、急性期、回復期の回復曲線の急カーブでは心理的不安定で認知症の症状が部分的に発露することは珍しいことではありません。

 勿論、被保険者名、調査員名、医師意見書作成者名等が覆い隠され個人が特定されない状態で行われる介護認定審査会において介護の必要度(要介護度)及び認定有効期間が判定される二次判定がありますから、(介護保険では最初は半年その後は1年毎に見直しがありますし)、急激な変化には対応できるようですが、発症後ある程度時が経ち安定期に定着した方が静かに沈黙を守る場合には、肢体の不自由を直接訴える認定でははその介護度の判断基準に不安を感じます。

 それは、
 「二次判定では主に一次判定の結果では要介護状態とされた利用者の事実上のふるいにかけて認定を要支援状態にもっていく際に多く利用されることが多い(特に財政的に悪化していたり、介護保険の支出を抑えたい地方自治体ではこの二次審査でもって認定結果を要支援状態としていきたいと考えており、誰がどう見ても介護が必要な利用者が要支援状態になる原因がこの二次審査にあるといっても過言ではない。特に日常生活の殆どを介護状態として介護が必要な利用者でも認定審査では一次審査で要介護2ないし3とされながら2次審査で要支援2という結果にされる場合もある。」

 と言われている部分と

 実際の認定においては、区市町村長が保健・医療・福祉の学識経験者から、任期は2年で、任命する介護認定審査会の委員のうちから会長が指名する者をもって5名で構成するとなっていますが、その該当者は医師、歯科医師、薬剤師、保健師、介護支援専門員、精神保健福祉士、社会福祉士、介護福祉士、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士などなっています。受容者に対するこのような多岐に亘る検討する余地が5名内であり得るのか

 不安です。

 当然、介護度区分の決定は受けるサービスに反映しますから、医師の診断は最も重要です。

 失語症に対する介護保険での効用は、失語症を考え・語るその.2の中に紹介してありますが、平成16年7月25日(日)、あるSTの語った内容其の侭でしょう。

 「社会参加ということの中では、曲がりなりにも元の職場に戻れるということが最大の幸せ、最大の社会参加であろうと思います。それがかなわなければ職業を変えて、あるいは職種を変えての配置転換ということで、障害年金に加えて収入が得られるということは、次のめでたいことであると思います。

 それが、かなわないとしたら、やはり朝起きた時に出かける場所がある、あるいは習いたいことがある、という生活が次の目標であるかと思います。

 その場合に、今まで平成12年までは、殆どそういうチャンスがなかったわけで、介護保険が出来ましてからは脳卒中の方は40歳以上であれば、介護保険の通所施設で受けてもらえる、通う場所があるということで、私自身は、介護保険の通所サービス、デイケア・デイサービスにSTを雇ってもらってそこで、失語症の仲間作りをしていきたいと思っております。

 うまくいくかどうか、皆さん方がこれから各地元に帰って、ご自分の地域に同じ障害の仲間がどのくらいおられるかということにかかっていると思いますけれど。朝起きた時に出かける場所がある、会える仲間がいるということについて介護保険が役に立つということを、今回この会場で強く訴えたいと思っております。」

 しかし、失語症を単なる介護と見做し回復の可能性を放棄しているとしか見えない失語症の会が多いときですから、加齢による介護ではなく、あくまで障害の後遺症の回復に向う目標を運営の根幹に据えても初めて国家資格に値する専門職であって貰いたいと祈るのみです。

 しかし、実体は自立ではなく、文字通り“介護事業”の一環でした。
 そのなかにはSTの安定した職業としての生活確保の戦略があることは言うまでもありません。

 毎年30人越える高齢者が介護をする家族によって命を奪われている。
 嘱託殺人も目立つ。
 介護者の心身を守らなければ要介護者も守れない、家族の休息を義務づける。

 今日的問題が続くなかで行われる「要介護認定調査検討会」の検討の前提と私の生活感覚とは随分距離を感じます。

 特に渋谷区の【基本目標】が、現状のベクトルの方向を“回復”に照準に収斂され、幅広い受け入れ器になることよいのですが、そのためにはコミュニティーの熟した福祉社会になることが必要と思っています。 

 さきに触れた、
 “コミュニティー(community)の中での存在意義”、
 “私の故郷は何処にあるのか”
 自問と自答が続きます、恐らく残り少ない時間で…続くでしょう。

 渋谷駅の1日の乗降客は200万といいますから、何時もテレビに映るスクランブル交差点を通る多くの人並み、それを吸収するビル群を渋谷と見ることが一般的ですが、人口20万人の渋谷区で選挙権を持っている在住の区民は、表通りから3軒も4軒もなかに入ったところの居住している場合が多いのです。
 国や都の施設は多いのですが区民の使えるものは極限られています。
 人間関係は希薄になること受け入れざるを得ません。
 勿論、強い人、つまり、多忙な会社人間・社会責任を負う指導者等や閉鎖的な地域の境界に煩わされることなく自己目的の完遂に邁進しつつある若く活性的世代には、寧ろ、ややこしい近所付き合いが無いことが都会のよいところとして受けいれている場合があります。
 私は、最近まで麻生総理の自宅が渋谷区であることを知りませんでしたし、他に知名度ある方が多くおれると聞きいています。

 人は、“住めば京(みやこ)”、と土壌(とち)に帰ると思っています。
 
ただ、その京(みやこ)にかく個人がどのような彩りを施すことが平穏な余生を得られると思えるようになりました。
 
とちには長い生活の喜怒哀楽を見守った追憶の歴史を秘めています。
 
それは障害を受けて解る感覚です。とち(自然)に還ることかも知りません。

 幾分、飛躍しますが、勿論、政治家はその点はよく心得ておられると思っています。
 今回、千代田区の区長選では、“子育て支援や地球温暖化対策などに取り組むと主張。「千代田区で働き、学ぶ『昼間区民』と区民とが共生できる街にする」と訴え、信任を得た”とのことです。

 『昼間区民』と区民とが共生は、いま最も求められているグローバルな行政施策ですが、コミュニティー(community)としての有機的同化には距離の多く深い懸隔があります。

 静かに消え去るセンチメンタルな終焉の生命には、昼間人口と夜間人口の格差は故郷の土壌の意味を変えます。
 そこには兎も小鮒も友がきも忘却のかなたです。
 しかし、それはそれぞれの価値観かもし知れません。

 私は私なりに今後の在り方を考えたいと思っています。
 それについ整理する必要を感じます。


                 ………………………………………………………………
 此処で話題を変えて、私がこの間調べたことですが、雑多でしたが最も関係深いものですと、
 厚生労働省のHPを開くと、審議会、研究会等の項目ありました。

 そこで社会保障審議会>介護給付費分科会と 辿って第57回社会保障審議会介護給付費分科会資料を開きますと、介護保険の審議経過を通していろいろよく分かります。

 介護保険サービスの動向に関する資料、
 平成21年度介護報酬改定の視点
 訪問介護について
 社会保障国民会議における検討に資するために行う医療・介護費用のシミュレーション
 等々PDFの資料が載っています。

 また、一般的は立場から報道・解説内容は全く門外漢であった私には大変参考になりました。
 情報発信者に心から感謝申し上げます。
 その一部をご覧下さい。

    9割の事業所「介護職不足」

    重度障害者の訪問介護が深刻に

    望ましい医療・介護制度を検討

    重い費用負担(介護現場の「9つの困難」上)

    相次ぐ給付抑制(介護現場の「9つの困難」中)

    09年度介護報酬改定の概要(1) 居宅介護支援・介護予防支援

       ………………………………………………………………

   私なりに携ってきましたが、“何と言いましても、今はいろいろと過度期ですから、成り行きを見たいと思います。
   そして、改めて考えたいと思っております。”、ということが実感でした。

 しかし、私には不図したときに私の脳の画像を思い出します。

右脳では元から太い血管が分岐し段々と細かく分かれている様子が分かりますが、左脳では太い血管の先が止まってその先はありませんから、別な画像では白く空洞です。先端の再生医療でも縊死した脳の壊れた部位回復はあり得ないことは自覚しています。

 しかし、生きていく生命の尊厳は守りたい。
 生きている限り考えたい。

 やはり、私の厄介な習慣でまた考えることにしました。
 つまり、地域に閉鎖したあり方に限らず、広く共存を希有できる新規な在りかたに逡巡する私の脳裏に、発症後、初めて新しい語彙が蘇生しました。

   “コスモポリタン

 高校生の時に始めて出合ったギリシャのことでした。

 具体的には、例えば、障害者の優しいと紹介されているスウェーデンですが、いくら福祉水準が話題になっていても、消費税25%、最高税率50%では日本の現状には適用できません。
 どんな優れた提案でも荒唐無稽な屏風絵になります。

            でもねえ、究極の結論は何でも最後は、好むと好まざるを得ないことですが、
           政治の問題になりますね。

    ………………………………………………………………

      では、日本の現実を考える、ほんの一寸時間を下さい。

  リーマンショック
 アメリカの名門証券会社で投資銀行でもあるリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)が2008年9月15日に連邦倒産法第11章の適用を連邦裁判所に申請すると発表して事実上破綻したことによる世界の金融市場に与えた衝撃をまともに受け我が経済は100年来の不況に見舞われた。

 企業収益はのきなみ1950年以来通期赤字への転落、労働市場は正社員との処遇の格差是正、派遣社員のメリット・デメリット、ワークシェアリング、セーフティーネット(安全網)整備などを政労使で論議する必要性が注目されました。
 しかし、世界的には経済は優位を保っているようです。

 経済は一流政治は三流といわれる我が国ですが、残念ですが、政治は三流という事実は現政権を見る限り認めざるを得ません。

 小泉政権の信任をそのまま継続した国民の審判を受けていない阿倍政権は議案を圧倒的に数に驕り強行採決を繰り返しました。日常、政局には不案内な私もその強引さは伝わってきました。その結果が参議選に現れたと理解しています。

 その捻じれ現象の修復するための交渉が正面突破の闘いより如何に困難なことは日本の歴史を見れば分かります。
 その後のていたらくは言うまでもありません。

 しかし、世界で活躍している学者、事業家、芸術家、冒険家、市民ボランテぃア等々優れた人材を輩出しています。日本語で講演したノーベル賞の受賞者もおられます。
 特に、スポーツの世界ではその実績が分かり易いものですから、我が国の能力はそれなりに評価されています。

 従って、日本人の資質については安易に触れることはできませんが、日本人の政治と経済の評価の乖離には、それなりの因果律を検証しなければならない問題です。

 狭い島国でありその国土の70%が山林で、その狭間に流れる河川の扇状地や三角州に集う集落を根拠とした日本人は、日本では有史後では部分的な移民や帰化民はいても政権を変える異族民の入流はなく、年と共に大勢に同化していきましたので、そのルーツは混血の要素があるかもしれませんが、住民感覚では単一民族の生活様式でした。

 従って、周囲の海は外敵からの侵略からの保護は絶大でしたから、幸運にも神風の襲来により、アジヤ一帯からヨーロッパまで席巻した蒙古軍さえ遮る強力な防波堤の役割を果たしていました。

 また、平均降水量1800mmで、季節の変化に恵まれた温暖な国土ですから、全てが温和な身内の問題になり、人種・宗教・思想信条・価値観等による越え難い異物感の少ない狭隘なアットマークな事案に終始します。

 当然、抗争、戦闘はありますが異民族間の動物的手法に対して植物的になります。

 生命が誕生してから進化を繰り返してきましたが、その生命体としてのヒトのDNAは、我が国のような閉鎖社会では価値観の共有が定着し生存可能環境のもとで過密に耐える因子を組み込みます

 例えば、狭い居室で飼育された飛蝗(バッタ)の相変異のように、生活機能、文化に影響が出て来ます。

 (草原で暮らすワタリバッタは狭い空間に集団で飼育すると、身体が少し小さく、色が黒みかかってきて、体躯に占める羽根の割合大きくなる。つまり、飛翔距離が圧倒的に大きくなる。相異変である。それには、生理的な変化を伴う。草原で食べているのだから、デンプンをとることになるが、この群生相のバッタはデンプンを脂肪に変える能力をもってくる。デンプンは1グラム4カロリーだが、脂肪は9カロリーで遥かに効率がよい。かくて集団発生したバッタは大群になって移動を始める。)

 狭い国土に過密が進み、我が国の国土は急勾配な山野のなかの河川の段丘、扇状地は狭隘で落差があり、三角州は湿地帯が多く、長い年月と大変な努力を積み上げ開拓してきました。
 侵食・運搬・堆積等の自然の営みの恩恵を待つ合間にも、常に、人の力で切り開くことが不文律な定めと全身に浸み込んでいました。
 (その厳しい“枷(かせ)”に対する幾多の世代に亘るその執念の蓄積が、やがて昭和の御世に今太閤と言われた強大な政治家の土壌として結実したと理解しておりますが、それは、後に触れたいと思います。)

 そのことを世界の国々と比較しますと、私の発症前に調べた資料ですから、ずいぶん古いものですが、歴史を見るには差し障りがないと思いますので、引用します。

 『1996年の「FAO生産年鑑」及び「1995年の「世界人口年鑑」によれば、日本の耕地率は11.2%、で例外的に少ないエジプトの3.3%、スイスの10.2%.中国10.0%についで、世界で少ない内にははいる。しかし、耕地面積当りの人口密度となると、1平方キロメートル当り、2,8668人になる。因みに、エジプトが、1,804人、スイス 1,664人、中国 1,286人に比べてみれば世界一の超過密である』

 ですから、時代に拘らず、一つの例を言いますと、
 現在最も広いと思われる関東平野で歴史に登場する熊谷氏、新田氏、足利氏、北畠氏等は殆ど里山(第二自然林)とそれに続く肥沃な土地の恩恵を受けた関東平野の周辺地域に準拠していましたし、江戸は大田道灌の功績が多いもので、鎌倉時代前は一般的に京から東北に行く場合は鎌倉から船で千葉に渡ったと聞いております。その名残が、千葉県の名称に残っています。房総半島の地図で南が“上総”、北が“下総”となっています。

 また、1800年代の江戸は百万都市と言われますが、町奉行支配下の町民、寺社門前町人、参勤交代による流入、出稼人(荻生徂徠の「政談」では、「江戸は諸国の掃き溜め」と称していますが、火事等災害対策に多くの人力の供給はありました。)とそれぞれ管理者が一体ではありませんので、その数値には大きな誤差があるようですが、当時のロンドン:86万人、北京:90万人、パリ:54万人、ニューヨーク:6万人と推定されていますから、100〜120万という江戸の人口は大変多かったようです。

 問題はその中身です。
 半数は武士ですが、江戸の全体面積の64%は武家地で人口約60万人に対し、 町人は人口約 65万人で15〜20%の土地に生活していたそうです。

 そこでの町人の3分の2は長屋住まいでした。

 長屋と言っても、裕福な人が住める表長屋、割長屋もありましたが、とかく貧乏人の住む裏長屋、それも俗に九尺二間と言われる棟割長屋全部合わせても六畳で、ここから土間と竃(へっつい)の分を除いて、座敷は、四畳半で、共同井戸、共同トイレ、共同ゴミ捨て場が共用の粗末なものでした。

 まさに、現代人から見れば“過密と貧困”のエッセンス(Essence)でしょう。

 また、我が国の街の成り立ちは、戦いの歴史を見ると明らかであると、私は、武器とりわけ刀剣の収拾・研究家の方からいろいろ教えて貰いました。

 もう40年前ですから故人ですが、私の最も尊敬する方でした。

 東大の法科出身でしたが、元々化学に興味があったが目に支障があって泣く泣く法科に進んだが、結局卒業後はクリーング機械の特許を取り会社を経営されているとう変わり種の方でした。その方のお話は教科書にはない貴重なものばかりでした。

 その方は、ご自分で貴重な刀剣、槍、薙刀、火縄銃、鉄砲等をお持ちでしたが、よく私を博物館や展示館に連れていき説明をして下さいました。

 種子島でポルトガル人により得た火縄銃は日本の鍛冶屋の技術では如何しても出来ず当時の領主の娘を差し出すことでその筒の閉じ方の指導を受けたことを、私は初めて知りました。

 その方は、戦争の武器とその使い方を、その背景としての戦略・戦場地形に注目して解説されました。

 外国の軍隊のような車を使った作戦ができない日本の山岳地形を、季節(雨量及びその時期)を含めて触れていました。

 鎌倉幕府の鎌倉は当時の脚の短い木曽馬では越えることは出来ない要塞で、剣を投ぜし稲村が崎はよく知られています。

 いっきに蹂躙し、統治することの困難な我が国の状況は、全ての歴史が物語っています。

 当然、地形にともにその自然によって育まれた人間関係の複雑な交差が出来上がっています。

 文字通り生き残りに終始した、鎌倉時代後期から南北朝時代に出現した自らの“一生懸命”な既得権益を守るための社会的風潮であった下剋上の経て、やがて統一が進むと、その結果、施策は交互に連鎖し細かくなり、政権はそのルーツを整備し、万世一国の系図を浸透させ、その後の武家政権は婚姻を通して清和源氏と桓武平氏を中心に闘いながら融和し、征夷大将軍と関白を継承しました。

 このようにして同族密着社会は世界に稀に見られる、実務権力支配者武家と伝統に順ずる天皇家に纏わる貴族の二極支配権力機構が定着しました。

 しかし、二極支配と言っても、南北朝時代のようなややこしい時代は別にして、実は、世情が安定した江戸時代では、紫衣事件により江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制のため「禁中並公家諸法度」の制定しながら、天皇の任命による「征夷大将軍」を受けている通り、その内容は背反する機能ではなく、共に民族としてのステイタスの根拠として存在していていました。

 つまり、国体としては一体であり、視覚の方向によっては実像でも虚像にも在り得る価値観の関係であった言えると思っています。
 江戸幕府の討幕軍は錦の御旗を先頭に立て正規軍を誇示しました。

 「万世一国」と言う表現は、明治になって天皇の歴史的由来を示す言葉として、当時の政府が諸外国に新たに成立した政府として存在を示すため頻繁に使われた外交文書に使用されていた、古事記にある「万世一系」を、井上毅が、天皇が国を治める正当性の根拠として憲法の草案に取り入れた事に因ります。

 しかし、大日本帝国憲法(明治22年2月11日公布、明治23年11月29日施行)には
 
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

 として、内容としては矛盾や曖昧さを孕んでいます。

 それについて、1886年6月(明治21年)、その草案について枢密院で審議されましたが、その中で「第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という第4条の「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と言う部分の削除の意見に対して議長の伊藤博文は「憲法は君主権の制限である、憲法の条規がなければ無限専制政体になる」と言い、多数で可決された。

 しかし、1887年(明治20年)夏島における憲法の草案つくりで、明治政府の法律顧問ドイツ人法学者ヘルマン・ロエスレルは、
 過大な誇称として馴染まない、”コレカラ百年ヲ予想デキナイ。マシテ今後幾百千年ノマテモ皇統ノ連綿タルベキヤ何人豫知デキナナイ”と言い、
 「万世一国」という用語を憲法条文に書く事に反対を表明した。

 当然、長州藩士としての倒幕を行った伊藤博文は最も国体における天皇の在りかたの矛盾や曖昧さ理解していたと思われます。

 その後、発布から23年後に起る帝国大学教授上杉慎吉による”天皇主権説”と同美濃部達吉の”天皇機関説”との議論の結論は列強との国を挙げての厳しい対応の中で、「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という憲法の統帥権に準じた勢力の台頭が決めることになりました。

 その評価は割愛させて頂きますが、私は今でも覚えています。

 東京オリンピックのとき、フランスの記者が自国に送った記事が一部の新聞にでてしまい、国際問題になった。
 「ヒトラーも、ムッソリーニも、第二次大戦の責任者はその責任通りにこの世を去ったのに、もう一人の責任者、ちっぽけな日本天皇が、この平和の祭典に開会宣言をしている」
 という記事だと思いますが、恐らく、当時の外国人ではそう考える人も少なくなかったでしょう。

 枢密院の憲法審議の議決は伊藤博文と同様それが我が国の統合の至上のドクトリン(Doctrine)と身を以って自覚していた筈です

 また、1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法は、敗戦の経験の反省にょる大きな改革がありますが、大日本帝国憲法の改正手続を経てきた憲法であり、天皇の国事行為が限られてますが、国体のあり方は変わってはいません。

             ……………………………………………………

         話題が飛び飛びになりましたので、論旨を確認します。

         歴史的に検証すると、マイルドな気候、弧状列島に住む人類に定着した資質は、
         過密による遺伝子レベルの適応を構築する。
         それは、環境異変に巨大な恐竜が絶滅したが、小さな哺乳動物が生き残ったように。

 その観点から実質支配者の幕府と公家を擁する天皇家が、成立する社会はすべての要素を包含した日本の縮図と理解しております。

 信長の妹、お市の方の子1子茶々は豊臣秀吉(関白)の側室=淀殿、2子初は京極高次正室、3子江(徳川秀忠(征夷大将軍)正室)がいる。江戸幕府三代将軍徳川家光や豊臣秀頼は孫に、明正天皇は曾孫にあたるということはよく知られている。

 武士では、例えば、

 真田家:関ヶ原の戦いでは、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。ある場合は
      兄弟で敵と味方に別れて、どちらが勝っても一族は生き残る。

 郡上藩:官軍の大使には「天照坐皇大御神」、幕府の役人には「東照大権現」という掛軸を床の間に懸け、当家は
      代々忠節を誓うと誓書を差し出し、官軍のための道路普請を進んで引き受ける、幕府へは、幕府軍側の
      一隊として凌霜隊を結成・派遣をした。

 との様にして部族の保存を図った。

 庶民はお互いを助けそして締まる人情の制約ができ、総じて貧困、飢餓に怯える人たちも出てきます。

 江戸時代の後半は人口があまり増えないが、飢饉があると当然多くの死人がでますが、間もなく充足されと、その後はまた一定の人口になるとそれ以上は増えない。産児制限の技術はない時代では間引きが少なくありませんでした。口減らしは何処でも考える自明の問題でした。
 長老を頂点に戴く、“分”による階級社会でもところによっては姨捨山はありました。

  “一姫二太郎”は、安定な家族維持する条件でした。

 持つ子供の数は3人で健康である事が良いとされた思いが集約された結果であり、“姫”、“太郎”には賢い健康な人材に対する名称の意味が籠められていました。現代人が勝手に解釈して、始めは女の子の方が育て易いから一番目には女の子と言うのではないのです。もともと生まれてくる子供が男児か女児かは神のみ知ることですから、それは妊婦の仕事として、寧ろ、男児の誕生を重要視していました。

 鎖国ですからそれしか方法がなかったのです。

 個人より家・家族・家系・格式、種族、やがて多段階の身分区分が構築され、それを操る倫理機能として、一人の人格としては間尺に合わないが、この社会の人と人の間にいる人間として、好むと好まざるを得ず、厳しい枠がはめられました。

 「壁に耳あり障子に目あり」、「風が吹けば桶屋が儲かる」、込み入ったややこしい関係が出来上がります。

 家を出れば7人の敵がいる。出掛けに火打石で厄を祓い清める習慣がありました。
 江戸歌留多の「
論より証拠」の受けの言葉は、「藁人形」でした。

 基本的人権は組織で抑圧されました。
 それは、生きていく智慧ですが、能力が有効に生かせない、ややもすると命取りになる。

 従って、分を弁えた滅私奉公が最上な美徳社会でした。

 しかし、世代交代も自然環境変化(被害)も起こります。特に人間関係の基では、権謀術策を駆使することは優れた指導者の条件でした。

 「…百年兵を養うは、ただ平和を護る為である。」とは連合艦隊司令長官・山本五十六氏の言葉ですが、実際は同じ心境で事に中ることが通常でしたから、兵法の学習は必要不可欠なことで、性善説と性悪説を使い分け、T.P.O.にあう対応し、時には、一途な忠義を犠牲にして体制の陵駕を図ることが賢明な指導者でした。(これが後に触れる現在の政治家の誤解の原因になると思っています。)

 ですから、安定した封建領主の裁定は、毎回ぶれようと、権力を支える機構が整っていれば安泰でした。

 即ち、その社会によって出来上がった結果が身分に合った行儀作法であり、いろいろの事に中る手法ですから、それを受け入れないと村八分になります。

 通常は賢明なコンセンサスには根回しが不可欠です。

 当然今でも、続いていますが、割り切りの曖昧な表現は会議には付き物で、言語明瞭意味不明瞭、また、センテンスがYES、N0の意思表示が後になることは、会議の重要性にとって弊害と指摘されています。

 「…あなたの案は素晴らしい。私も協力したいと思っていますよ、そこで職員の意向を聞きましたところ、: 私は反対します…」

 長々と喋った後の反対とは腹が立ちます。

 それを日本語の所為にするのは大きな誤りです。

 会話の当事者がその意志が明確の場合では、それを使い得る余裕がある言語で、それが習慣化すれは、文法が自動的に変化します。

 つまり、未だに同属社会、利権社会の弊害が処々に残存しています。

 周囲に合わせて、本人による独立した主張を表示のない曖昧な、控えめの、あまり頼りがえのない人(そう装う人)、多いですね。

 しかし、東大寺大仏殿のように世界最大の木造建築はありますが、総じて、その一面として、私は日本の文化は、“過密と貧困”のエッセンス(Essence)を昇華し形式化に準拠していると思っています。

 “わび”、“さび”.のように、また、“”.

 また、八百万の神様を祭って、各時限毎に問題を解決する手法は過密社会の副産物でした。狭い空間に注連縄(しめなわ)を張り、祝詞(とりと)を上げ神域を作る、よれによって結束を構築する。

 神事によって人の心を掌握する同族社会の知恵です。多段階に亘り定着して来ました。

                     ………………………………………………………………

 ですから、内圧には耐えられるが、外圧には弱い。つまり、外圧によって進歩する。

 とかくシャイと言われる私たちのような旧い日本人は、街で会った外国人にとても親切に対応すると言われています。しかし、その方の使う言葉がたどたどしい日本語でしたらいいのですが、ところが流暢な日本語を喋るとなると、対応(態度)が一変する。空気が変わります。悲しい性(さが)と思いつつ…と

 しかし、倒幕薩摩の薩英戦争、長州の下関戦争(馬関戦争)は、多くの代償を払っても、結果として、外圧による内部拘束を解放し、構造改革を迫り、日本の近代化を進めたのですから。

                     ………………………………………………………………

    【ここで本題である日本の政治を考えてみたいと思います。】

 かってケネディ大統領に、“日本の政治家で優れているものは”、という質問に、大統領が即座に答えた人物がいます。

 徳川家康の全国統一後の改易により録が減らされ上杉藩等は幕府に大名を返上しようという動きもあった。ここで登場したのが、上杉鷹山でした。

彼は徹底的に質素倹約をむねとして、上級武士の華美を抑え、武士による新田開発から、ローソク造り、越後の織物の自領生産など殖産興業につくし、藩の財政を建て直し、自らも生涯一汁一菜を貫いた。江戸時代の鏡となるべき名君であった。

 しかし、この政治は身分制度の下で把握可能な媒を以って限られた環境で行われたし政治であり、常人では到底できない偉大な業績ですが、現代にはそのまま当てはめることできない。

 それに対し、その評価、功罪は別にして、主権在民、普通選挙の下で、組閣し、中華人民共和国との間の日中国交正常化等大きな足跡を残した田中角栄の存在は大きいと思ってます。

 それは、民衆の要求の集約が根底にあると実感しているからです。

 現在は差別用語(1970年代頃放送禁止用語に指定)として使われてませんが、昔は山陰地方、北近畿、北陸地方、旧出羽国の本州の日本海側を指す呼称として”裏日本”がありました。

 湯里の置屋「はる屋」の女将・夢千代を取り巻く人々の生き様を山陰の冬景色を背景に物悲しく描いた「夢千代日記」が1981年〜1984年、NHKのドラマ人間模様で放映されました。覚えておられる方も多いと思います。このドラマの主人公は、母親の胎内にいたとき、広島で被爆した「被爆二世」で原爆症を発病しており、余命2年と宣告されていると言う宿命に耐えているが故に深みが増す美しい女将を吉永小百合という最も円熟した女優が演じて見る人に涙を誘いましたが、そこに流れていた調べは裏日本の風土と感じておりました。
 ドラマの最初を告げるタイトルの画面が出ると、それは、鉛色の雲の下を、日本海沿いに厳しい山岳地形を縫って通る単線の山陰線“余部鉄橋”を渡る列車の窓から迫り来る荒涼とした沈黙の風景でした。
余部は優雅な京都から遠い町でした。
 しかし、私が2年前、東京から鳥取空港まで行き、その後車で砂丘、“余部鉄橋”、湯村温泉、京都と回りましたが、季節が春でしたので様子がずいぶん違うと思いますが、現在では周辺道路は整備され、鉄橋を挟んでいる余部駅と鎧駅では列車を待って両駅を往復する観光客がいました。列車からは眺望は空気が澄んでいる香住海岸が心象的でした。それだけ冬の格差があるのでしょう。

 しかし、最も多量な積雪に対峙してきたところは奥越の人たちでした。
 冬は重い雲に覆われ厚い雪にすっぽり包まれ、二階の窓から出入りをする。道は閉ざされ村は孤島になる。

 その代表的な様子は越後国魚沼郡塩沢町で天保7〜12年(1836〜1841)の世に出された書籍が現存しています。(私も今回国会図書館で確認して来ました。しかし、書かれている文面は江戸時代の言葉ですから、私には読むには苦労しました)。
 雪深い日本を紹介する資料として幕末横浜経由でアメリカでも知られています。

  鈴木牧之著作の北越雪譜江戸後期における越後魚沼の雪国の生活を活写した書籍。初編3巻、二編4巻の計2編7巻。雪の結晶のスケッチから雪国の風俗・暮らし・方言・産業・奇譚まで雪国の諸相が、豊富な挿絵も交えて多角的かつ詳細に記されており、雪国百科事典ともいうべき資料的価値を持つ。著者は、魚沼郡塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ鈴木牧之。1837年(天保8)に江戸で出版されると当時のベストセラーとなった。

 この記述をつぶさに辿れば、急峻な地形、豪雪の雪国の厳しい生活がよく分かります。

 この裏日本からの脱出、せめても格差の是正の願いは誰でも分かります。
 その執念が蓄積しているこも当然です。
 そして、それが不可抗力であったことも理解しています。

 しかし、周辺地域のみならず我が国全体の環境整備が進み、やがて、春が来てその一隅に光が届き一揆に雪解けが起った。
 その民衆のエネル
ギーの集約で田中角栄は政治団体「越山会」のもと、大量得票で当選し、公共事業の導入とその直接的・間接的な経済波及効果を齎した。

 つまり、結論から申しますと、時が流れ、国境線が解放され、選挙による執念の集約が、国家規模でその一端として国土の改造を動かした。
 そして、その政治力の延長線で日中国交正常化が成立した。
 当然、郷土の道路は格段に改修され、表日本との格差は審議された。

 それが、現代の政治の評価ではないでしょうか。

 ですから、政治家の指導力は当然ですが、個人の政治家の存在感の在り方は、その淵源は国民に委ねている。

 従って、その趨勢は、

 田中内閣は1974年に衆議院での小選挙区比例代表並立制導入を含む公職選挙法改正案(一票制の小選挙区比例代表並立制を提案)を提出したが、自派に有利な選挙区割りをするカクマンダーという批判を浴びて断念した。その結果、この総選挙も従来通り中選挙区制で行われた。また大都市部での有権者増加に伴い、定数是正が行われ、総数は491から511へ20議席増加した。

 都市部で市民権の拡大を齎した。

 ご存知の通り、黒船来航により随分変わりました。日本は古い因習から徐々に脱皮していますが、市民が政治的に成熟するには未だ高いハードルがあります。

 長い間支配者を根幹とする身分制度に慣らされきた一般市民には、平等な発想・思考を妨げる長い慣習あありました。また、財力のありませんでしたから、”ながいものにはまかれろ”と地縁・血縁・職縁の絡みはごく個人的利益に直結し、個人としての存在は希薄であったと思われます。常に閉塞感がありました。
 民主主義が高らかに宣伝され、労働三権が保障され、組合の組織率が上がっても、保守党は安定していました。

 私は戦中から戦後現在まで、その狭間に苦悩される多くの政治家を見てきました。
 そのなかで私同年代の政治家が気になりました。

 1976年(昭和51年)自民党を離党、新自由クラブを結成し党首に就任した人が衆議院議長河野洋平氏でした。

 【 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia):河野洋平』
 長い間保守系の政党が自民党一党のみだったなかでの新保守政党の結成は、革新政党への支持を躊躇しながらも自民党に不満を持っていた支持層を引き付け、結党直後の12月に行われた第34回衆議院総選挙では一挙17人を当選(さらに追加公認1人)させるなど党勢を伸ばした。

 しかし、間もなくして新自由クラブの中道政党化を目指す河野・田川らと、非自民の第二保守政党であるべきとする西岡・山口らの政治姿勢の違いから、党首・河野と幹事長・西岡の対立が激しくなった。最後には公に互いを非難しあうまでに発展するが、党内の大半は河野を慕う新人議員で占められており、結果、山口・有田の説得もむなしく、西岡は新自由クラブから離党してしまった。

運営面での混乱が目立ち、政策的にも新味さを打ち出せず、1979年の第35回総選挙では4議席と惨敗した[2]。総選挙後の首班指名選挙では、自民党内が四十日抗争だった中で新自由クラブは自民党総裁の大平正芳を支持して自民党との閣内連立政権を模索したが、新自由クラブの支持者や野党、メディアから批判を受けて失敗し、河野は代表を辞任、かわって田川が代表に就任した。

 一時期同じ少数会派の社会民主連合との反自民共闘を念頭に院内会派「新自由クラブ・民主連合(新自連)」を結成したが、その後会派解消。民社党、社民連との中道政党合流構想を打ち立てた後、いきなり自民党と連携するなど、どっちつかずで政党として明確なスタンスを確立することができなかった。

 1983年の第37回総選挙で自民党が公認候補で過半数割れすると、自民党との連立を樹立。自民党は追加公認を入れると過半数を確保したが、予算委員会で委員長を除いても与党で過半数を占めるためには、新自由クラブの8議席を必要であったためである。そこで、党代表だった田川が第二次中曽根内閣に自治大臣として入閣した。この閣内連立によって1955年から28年間続いた自民党単独政権が一旦終了した。

 しかし、1986年の第38回総選挙でも結果は6議席と振るわず、解党のうえ、大多数のメンバーが自民党に復帰した。】

 失礼ですが、公人でおられますから触れて頂きますが今から考えれば、ずいぶん昔のことになりますが、衆議院議長河野洋平氏が新自由クラブの解党し自民党に復帰したときだと思います。

 愚直の ?」と表題で雑誌「宝石」(雑誌名も良く覚えておりませんので、もしかしたら別な雑誌かも知れません)で当時の心境を語っていました。
 表題も”
愚直”という語彙があまりにも氏の実直な人柄が滲み出ているという印象でしたので、今でも強烈に覚えていますが、愚直の何であったか思い出すことは残念ながらできません。

 内容は、いろいろあっても日本の保守党は、主義・主張に拘らず民衆の合意の集約であるとう意味が書いてあったと思っています。それを、”チャンケンポン”で融和させることの大切さを説いていたと記憶しております。

 氏は私同年代の政治家ですが、毛並みのよいサラブレッドですから、学費に汲々として勉学にほと遠い私には、私には近寄り難い存在でしたが、先の見えない閉塞感の脱出を思いつつ期待をもって注目しておりました。

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 当時は通りや街角に未整備の部分な問題があり、行政が拘る住民運動・トラブルが多発していました。

 その具体的な経験から卑近な事象として検証したいと思いますと…。

 殆どの問題は地域の議員に相談したり、指導を受けたり、区(町)の行政に陳情・請願しますから、地域議員との日頃の交わりは不可欠です。

 私も何度かその場に立ち会った事がありますが、何か問題があって議員に相談に行くと、大抵は議員は担当部署の課長のところに案内し、住民の要求を住民に代わって説明し、訴える。場合によっては、関係部署の課長、係長を電話又は直接呼出し、その主旨を伝える。

 この町会の先生はたいしたもんだ”、住民は感激して帰る。

 保育園の前にマンションの建設の問題が起こると、その指導書の署名に積極的に指導・協力し、建物が完成し新しい住民が住み込むとその対応に気を使う。

 道路、駅や公共物の工事改修等の説明会には住民の前に出て率先的に質問し、”住民を蔑ろ(ないがしろ)にするな!”、と凄んで見せるが、中々人前では発言できない関係住民が、後になって相談に行くと態度が豹変し逆に原案を説明してお上に逆らう態度を宥め、説得する。
 結局、納得できない場合は住民運動を組織するしか方法がない。
 しかし、行政との対決では殆ど勝ち目はない。代表が何人かで関係部署の委員会の傍聴しても、召集された委員会は議題を告げて、即座に休憩に入る。休憩中は傍聴人は会場から退席を言い渡される。長い間待ってやっと開会で入室を許されと、椅子に座って間もなく委員長の終了の宣言で終わりになる。
 住民運動は大方の合意によって支えていますが、当然利害の反する住民や企業がありますから、厄介な住民運動には議会派としては、その組織の実力を勘案して対処しますから、住民運動の結果は殆ど自らを傷ついた挫折感に苛める沈黙の終焉を迎えることが多いと思っています。
 
“もう嫌だ”、家族に言い放した。

 地域住民にはその経験をした人はすくなくなかった。

 最近は聞く事はなくなりなしたが、当時はそのような議員を”マッチポンプ”という言葉がありました。

 それによる票は当選圏内約1,200票には少なくはなかった筈です。

 区内の施設の使用でも住民も利益の調整は議員が介入するより、優秀な行政の設定の方が公正が維持できる点で安心でした。

 そんな世相が70年代、80年代に蠢動する政治の底辺にはあったのではないでしょうか。
 しかし、先人の挫折と思われた提案が、次代に何処かの心に生き残っていて漸く実現していきます。
 それを見るにつけても、日本人を長くやっている同族感を感じるのは私の一人勝手な妄想かもしれません。

 現在、国の行政改革として官僚の在り方が問題になったいますが、区政段階では、住民主張の公共性は未だ未成熟の部分があると思っています。

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 しかし、あらゆるてんで最近の進歩は早い。

 科学・医療・通信伝達等々言うまでもありませんが、私が注目したいものは日本の人々の心理的移行と感じています。

 私はその変化の兆候を教育の現場から実感しました。

 今から12年前になりますが、全国の中学校でナイフによる殺人事件が立て続けに発生しました。この椿事と言える事件に当時の社会は大きなショックを受け、連日、マスコミは教育評論家、文部省等の政治家、大学教育学等との専門家の解説やコメントを紹介し、連日連夜、教育の危機を訴えました。
 総理大臣も国会書簡で呼びかけました。

 しかし、相変わらず日頃の自説を主張するに留まるのみで説得力のある構図はありませんでした。
 単なる教育問題の範疇として視点の転換が見られなかったのです。

 誰でも生まれてから、人に教育されやがて自ら親として教育に携わるが、先祖の生活様式を実直に継承してきた時代と違い内外の急速な変革に晒されている現在、そのあるべき姿に逡巡と迷いは避けて通れないのが真摯に生きている実体ではないでしょうか。
 当然、模索を繰り返し悩む親の姿を見かけることもありました。

 私は、急いであまり推敲もなく、“教育の混乱と少子化”として「キレる中学生」という小冊子を出版しました。
 今見ると、急いでいたと言っても、所詮配慮不足は明らかで慙愧の至りですが、私は長い間の生徒・学生との現場での接触を通じてその事件の原因は少子化と肌で確信していました。
 それは、少子化により既に様変わりしていた人格が、中学生の思春期の成長の発露にて対外的の表現されたものでした。
 これは人口統計を調べれば明白なことですが、その意味の体験的自覚となると成長過程の直接かつ継続接触がないと理解が難しい問題です。机上での評論には馴染まないと思っています。

 しかし、これは、“幽霊の正体見たり枯れ尾花”と思っています。

 いずれにしても、少子化によって生じた変化は、価値観の多様化を齎し、以前私が申し上げた“我が国の統合の至上のドクトリン(Doctrine)”からの解放を意味します。
 限られた容量の狭い空間で大きな岩石は細かく砕き、共存の効率優先に対し、少子化によるポータブルプレイスの拡張は、個人を圧縮から自立を促す、その途上の事件と理解すると、今後の調整効果が順調に推移すれば、
日本の政治の明るい
 晩年の毛沢東の最大の失政は人口問題、即ち産児制限を提案した高官を退けたことと聞いています。

 勿論、単なる少子化の可否を拙速に語る横暴は拒否しなければならない。
 人材の養成こそ政治の究極な課題です。

 先に突貫した幾多の戦友の骸(屍)を楯にし、それを踏み越え一歩前進、雨のように降り込む機銃砲の弾を受け、後に続く精鋭に路を開く…日露戦争の203高地はまさに全山ことごとく日本軍将兵の屍をもって埋め尽くすことになった。
 そして、勝った!。

 (その情景を思うと私は涙が出てきます。加齢かと思っていますが…)

 列強のアジア進出に対応できたのは資源の少ない我が国の豊かな人材資源でした。
 現在、海外で活動している指導者も少なくはありなせん、

 今後は、人材の多様性が開かれ、恐らく、

 常識人から“宇宙人”と訝しいと言われた若い人たちが同化する社会構造の裾の広がりは、やがては、政権交代可能の安定した二大政党の樹立は夢ではなくなった。

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 まだまだ、政治が一流になるために整備しなければならない幾多の課題があります。

 今後、保護貿易制度が波及すると危険な状況で、その実績が社会構造に反映・定着していないための真の独立国になれない憾みがあります。

 言うまでもなく、政治一流国になるためには、国論を集約し世界のリーダーとして登場するには今までの負の遺産を整理することが緊急の課題であることは自明のことです。

 ややこしい複雑な組織・機構は透明性と公開が政治の公明性の前提と確信しています。

 未知数と言われオババ政権の誕生は思わず興奮に震えました。

 毎日新聞の余禄はそれ以来、新聞を開くと第1に読む習慣が身につきました。
 

余録:厳寒の中の希望

 ドイツ人はクリスマスにはビールを飲んでバカ騒ぎするだろう−−こんな見通しなしには米国は独立できなかったかもしれない。独立戦争で英軍に圧迫されたワシントン率いる大陸(たいりく)軍は、英軍のドイツ人傭兵(ようへい)部隊をクリスマスに急襲して形勢挽回(ばんかい)した▲直前の大陸軍は相次ぐ敗軍で数千まで兵を減らし、凍りつくデラウェア川の岸で野営した兵の中には靴すらない者もいた。歴史的奇襲の2日前、そこにいたある男はたき火の光の中でこう記した。「今こそ人間の魂にとっての試練の時だ」▲男は「コモン・センス」の著者トマス・ペイン、この時に書かれた「危機」という文章は大陸軍将兵を鼓舞し、独立戦争の勝利に貢献した。米独立革命史の泣かせどころといえるこの場面は、米国の苦難の時代には繰り返し思い起こされる▲だからオバマ新大統領が、その「危機」を引用して国民を鼓舞したのは、困難な時代の米国リーダーの正道だろう。「未来の世界で語られるようにしよう−−厳寒の中、希望と美徳しか生き残れなかった時、共通の脅威にさらされた都市や地方は進み出て、共に立ち上がったと」▲華麗な言葉のアクロバットを期待する声もあった就任演説である。だが耳に残ったのは国民に正面から現状の厳しさを説き、米国再生への「責任」を共に担うよう求める堅実な言葉だ。そこには過熱気味だった期待を冷却する狙いもあろう▲仏思想家トクビルは建国間もない米国人を見て「欠点を自ら矯正する力」を見抜いた。行き詰まった政治の大胆な路線転換も、建国の理想を再活性化することで可能となる米国の文明だ。その21世紀版は今、黒人大統領が扉を開いた。

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ところで、今後、よく勉強したいと思いますが、

 独自の経済政策(金融、財政政策)とそれに伴う福祉水準が話題になっているスウェーデンは、1.面積 約45万km2(日本の約1.2倍)2.人口 約894万人だそうです。

 教育・福祉の透明性がよく知られていますが、それを支える消費税は23年前一票差で成立した与党が4%から国民の意向を聞きながら段階的に小刻みに挙げ、現在の25%になったと聞いています。

 後期高齢者の後期高齢者医療制度の導入とき、少子高齢化により医療費負担が現在の制度では瓦解するということで、強行採決されましたが、その際、「我が国の財産は高齢者に偏っているので、応分の負担をお願いするだけだ」という指摘がありました。

 確かに一般的に、総体的には家庭でも高齢者の貯金・証券・株等の所有金額は多いのは当然な事です。定年退職した退職金、年金で残りの人生を生きていかなければならないのですからそれなりの蓄えは不可欠です。

 特に、老後の対策が充分でない日本では、高齢者虐待防止法はあるにあるが、あまり知られていないし、障害者虐待防止法は立件の素案段階であり、法制整備が遅れています。

 しかし、そのような法律は必要がなければそれに越したことはありません。

 いずれ老齢化し、計算もまともに出来ず、管理に難しい状態になります。汗水流して蓄えた財産は、その当事者の有効利用の能力の減退につれてその使用価値は半減し、やがて、重荷になり、遺産相続に憂いを残します。

 豊かな老後は若い世代を信頼し育成し熟成された福祉社会が構築されることではないでしょうか。政治に透明に期待します。

 しかし、優れた社会機構を構築し、運営している他国に学ぶものは多いと思います。

 少しでも意味のある結果を期待するならば、当然、我が国と風土が育む人と歴史の蓄積を改めて学び、現在の事象の存在をマクロに考える事が前提になります。
 日本とその文化遺産と政治の成り立つの科学的な検証をしたいと思い、私には無理と知りつつ一歩でも大逸れた目的に向って歩き始める積りです。

 しかし私の思考能力では不安ですから、出来れば備忘録を作りたいと思っています。

                                                   09.1.10.〜

                                                


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