今福さんが、障害者交流会で久し振りに発表された便りを頂ました。
 氏は、交流会の主催者が言っている通り、”

 ”発症当時右半身不随でしたが、これはその後回復しました。まず、身体的後遺症は感じられません。
 しかし、現在も失語症と高次脳機能障害が残っています。”

 です。私は当日参加出来ませんでしたが、氏の発言の様子は手に採る様に分かります。
 そして、喜怒哀楽を共に感じます。
 失語症者の共感と悲哀を実感しますが、全てにまさる氏のような素晴らしい日々の行動に直面する時です。
 エールを送ります。

 脳梗塞、復職、99、喋ることの難しさ。

今福秀一

2年前の障害者交流会で脳梗塞の発病のスピーカーをしたのですか、最初その概略を交えて99の話と言葉の話をお話しましょう。

私は、10年前のゴールデンウイーク4月30日に蓼科の別荘で夜1人で居る所脳梗塞で倒れました。

その時の状況をまずお話しましょう。

朝、私が起きてみると、頭がくらくらし、目をつぶってもくらくらする状態でした。

こんな症状は初めてでした。あとで、脳に腫瘍とかガン等が出来るとそうなるんだそうです。

いずれにしろ、好くない病気です。

前の日に薬局で貰った頭痛薬が効いたどうだか忘れましたが、1時間位でもとに戻りました。

その日は、外のテラスをペンキ塗り等を塗ろうと思ってたのですが、こんな症状でどうか迷ったのですが、結局ペンキ塗りをしました。

夕方ペンキ塗りが終わりました。

風呂に入り、出て散歩に行きました。6時位でまだ明るかったのです。

帰りがけには、とっぷりと暮れました。

また、頭がくらくらし、目をつぶってもくらくらする症状が襲ってきたのです。

急いで家に帰りました。家から舗道に出ました。

縄跳びをしたのです。縄跳びする習慣になっていたのです。

縄跳びをするかしないうちに、バッタンと倒れました。意識は有ったのですが、体が言う事を効かない。

地面を這って遊歩道に乗り上げました。

それからしばらくして、付近の車が来ました。近所の初老の男性が運転し、家族が乗っていました。

彼は車から降りて声を掛けくれました。たぶん、酔っぱらっれていると思っていたのでしょう。私は、酒臭くは無かったのです。

女性が家に帰り、サービスステーションに電話をしました。

蓼科の別荘のサービスステーションにすぐに119の救急車に連絡し、担当者は現場に駆けつけました。救急車は、新しい介護施設も完備された、長野県の「南諏訪病院」に着きました。

妻の話では、左脳が麻痺し右の体が不随している状態。右の手が私の体の下になっていたので親指から小指まで、ペッタンコに潰れているという有様でした。

脳梗塞は怖い病気です。体の下のなっていた手までも影響が出るのですから。

頭がくらくらし、目をつぶってもくらくらする状態でしたら気を付けて用心用心。

ゴールデン ウイークが終わりました。STとPTの治療を受けました。

5月19日に転院しました。こんどは厚木の七沢病院です。

そこでは、STの先生は私が、単語は喋れるようになりましたしと言っても量は限られていますが。

体操の先生は、毎日最初に10分間を右手の指を揉んでくれて、(中国の療法で)親指から小指まで力は有りませんが、傍目には自由に動かせる状態まで回復したことでした。あとは、力を入れれば良いのです。それに合せてリハビリの先生は右手で箸を持てるように練習をさせて、力はありませんが箸を持てるようにしてくれました。50歳代の手習いですね。

車で時間もかかる事も有りまして9月1日に退院をした。

磯子の横浜市脳血管センターの妻と行きました。

STの吉野先生にお会いました。先生は筑波大学の助教授なっています。

そのときの話をしましょう。授業は火曜の午後1時から1時45分の授業。

6月の下旬に吉野先生が新横浜駅の横浜市総合リハビリセンターにいらっしゃった事あり、そこにある「職能開発センター」で「復職について」の話があると説明し、私が試験を受けて総合リハビリセンターに通い始めました。

ただし、文字は読めても、私は文字を書く事は出来なかったのです。行き帰りの電車の中で日記ようなものをノートに書きました。

私は文字を書く練習し、この文章は、私が自力で打ちました。

99の計算も出来なかったのですが、小学校の1年から4年の問題をやりでようやく回復しました

99の計算も出来、文章も書ける状態まで回復ました。でも喋ることはホンの少しだけしか出来なかったのです。

私と妻と「職能開発センター」の松田係長と女性の宇田さん湯田さんと会社と交渉した。

平成15年10月20日を晴れて復職をしました。

人事課で、人事の仕事、決済書の管理とパソコンの仕事する仕事です。

62歳で今も元の会社に勤めています。

「99の話」

かれこれ、10年間、現在「失語症」の症状にかかって下ります。

言葉が喋れないという事は、コミュニケーションが取れない事を意味します。

大方の皆さんが右の脳で悪い外傷が出ているのと同じ様に、私の左の脳は頭の内部で影響が出てくるのかもしれない。

脳の内部ですから、どうしようもないのです。せいぜい障害者4級から3級どまりです。

例えば、言葉が喋れなくなり、私は99の計算方法も出来なかった。

何しろ、×という事と÷という事は、最初は掛け算も割り算も分からなかった。

数字でなく、実は “にんがし”という言葉だったんだなーと、ずっとあとで私は始めて考えました。

私は、小学校1年から4年の99の問題集と同時に1ヶ月に1度母から手紙で99の練習問題をし、回答を書いて母に送り添削をし、次の問題集と添削送り返し1年間掛けてようやくもと道理の状態まで回復しました。

母は書道家で毎年毎日展等にも出します。当時は77歳です。その合間に郵送してくれました。母のお陰です。

で、それは言葉の領域であると考えたのです。

0    数字×1  数字×2 は分かるのですが、数字×3ここから分かんなるのです。2×3ではなく“にさんがろく”

“しし16”言う様な言葉です。ににが4とかにさんが6等比較的分かるのですが、さざんが9となるともういけない。

3,6,8鬼門、7になると天文学数字になる。

中盤の5は、ごさん15からごっく45迄の偶数は0と奇数は5を足せばいいし比較的楽に出来た。

最後の9は、くさん27は一桁の数を1づつ引いていき、二桁の数を1づつ足していくなどしてくく81で終わり。これは、何とか出来ました。

最後の3,6,8と、7ですが、特にしちし28、しちろく42、しちは56、はちし32よく間違えた。

視覚で数字を読む、確認し、聴覚で言葉で言う、7×4=28等と書く。

繰り返し練習をしました。

1年間掛けてようやく元の通りの状態になりました。

例   2,4,6,8は2の項目、3,6,9 は3の項目 (6は2,3の合項目)、5・7  は5・7の項目

0×0、0×1、0×2、0×3、0×4、0×5、0×6、0×7、0×8、0×9 =0

1×0、1×1、1×2、1×3、1×4、1×5、1×6、1×7、1×8、1×9

2×0、2×1、2×2、2×3、2×4、2×5、2×6、2×7、2×8、2×9

            

3×0、3×1、3×2、3×3、3×4、3×5、3×6、3×7、3×8、3×9

4×0、4×1、4×2、4×3、4×4、4×5、4×6、4×7、4×8、4×9

5×0、5×1、5×2、5×3、5×4、5×5、5×6、5×7、5×8、5×9   0×5=0・5 5×9=45 殆ど間違えなかった。

6×0、6×1、6×2、6×3、6×4、6×5、6×6、6×7、6×8、6×9

7×0、7×1、7×2、7×3、7×4、7×5、7×6、7×7、7×8、7×9  7×4=28、 7×6=42、7×8=56よく間違えた。

8×0、8×1、8×2、8×3、8×4、8×5、8×6、8×7、8×8、8×9    8×4=32  よく間違えた。

9×0、9×1、9×2、9×3、9×4、9×5、9×6、9×7、9×8、9×9  9×9=81で1桁の数字は1づつ9から増やし、2桁の数字は10づつ減らしていくゆうようなことで

これはたまに間違えた。

「文字について」

@ 言葉はコミュニケーションの基本です。

かってSTの吉野先生が、モーラ語のテープを渡してくれて、何べんもノートの書いて読みました。

なにしろテープですから、書く時間は限られています。

文字については、何しろ練習をしました。

A例えば「職能開発センター」に行く時に電車の中で“日記”ようなものをノートに書きました。

文章は行き書いて職員に見せ、帰りは職員の「私が書いた物」の添削です。

暇つぶしにちょうど好かった。

文字は漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字です。

Bまた、会社に行く時に必ず本を読みます。9年前は本を読むのに苦労しました。

次第に、理解出来るようになってきた。

いまや、文章は読めますと同時に、理解も出来ます。

C固有名詞は、今でも苦手です。誰それさんと言わないと、振り向いてもくれません。

誰それさんと言って、振り向いてくれます。それから、用事を切り出す。

質問は出来るのですが、私が答えを言うことで一苦労します。

D喋るのが大きな声が出ない。なぜでしょうか疑問です。

言葉がしどろもどろになる。

E話が違いますが、すうっと眠れ、夢を見なくなった。夢の細胞が欠落しているのかも知れない。

F結局、最後はズーズーしくなったという結論。

○ 復職に向けたリハビリ・コースについて

横浜市リハビリセンターの「職能開発センター」

○ 復職へ向けた会社との交渉、あるいは3者(本人・人事部・医者)

私と妻と「職能開発センター」の松田係長と女性の宇田さん湯田さん

○ 通勤に関する工夫

横浜で京浜急行から東横線まで混んでいる中を駆け出して、サッカー選手のような反射神経をみる。

○ 雨の日の工夫

右手が親指から小指までペッタンコになっていた。七沢病院で体操の先生が最初の10分間中国の治療法で揉んでくれ次第に回復し、傘を持つほどになった。

○ 電話応対の工夫、あるいはリハビリ

電話の応対は苦手です。電話は相手が電話を通じてしか分からない。

質問する場合には良いのですが、回答を得る場合には困ります。

○ 復職後の苦労、他

出来るだけ、外に出かけて、店の行き喋ること。例ば、店の行き「カレーライス」も言えなかったのですから。

○ 復職後のケアー、あるいは注意点

それぞれ苦労は違うと思います。あまり無理をせず、時間通りに勤務することが肝心。

以上


 障害者交流会の主催者のコメントです。
 

今福 秀一 さんの話

今福さんは10年前発症しました。右マヒです。発症当時右半身不随でしたが、これはその後回復しました。まず、身体的後遺症は感じられません。
 

しかし、現在も失語症と高次脳機能障害が残っています。

その、失語症と高次脳機能障害との闘いをA4で4ページに纏めた資料にもとづいてお話していただきました。

@ 文字について … 漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字

・ モーラ語(文節ごとに分かち発音したもの)のテープを聴き、それを何遍もノートに書いた。

・ 日記を書き、当時通っていた横浜市リハビリセンターの職能開発センターで添削してもらった。(その当時の大量の日記をみせてもらった)

・ 9年前は本を読むのに苦労したが、今では読み、理解できるようになった。

A 99は難しかった。数字×1、数字×2まではわかるが数字×3になるともうわからなくなった。その後 99は 1年かけてようやく出来るようになった。

B 発症して4年後にいったん退職し、階級を下げて復職した。発症前は営業だったが今は人事部に所属している。人事の仕事、決裁書の管理、パソコンの仕事 ・・・ 等で62歳になった今も元の会社に勤めている。




また、氏の所属している失語症の会の会報の掲載されている、日常の生活の記録を当時に送って頂きました。
 

7月1日海のエジプト展に行った。パシフィコ会場の1階で妻と2人で手帳で無料で入った。

入場料は大人2300円だから締めて4600円得した。会場は4つに別れていた。

古代都市アレクサンドリア、カノープス、ヘラクレイオンが海底遺跡から発掘された。

カノープス・癒しの都市。ヘラクレイオン・一番見所があった。ファラオ神、王妃の巨像等。

アレクサンドリア・クレオパトラの都。センターサークルの広い画面でバーチャル体験シアターを体験した。

4日、25日タワーレコードの渋谷店でカードのポイントが3倍のセール。1100円のCDを50枚程買った。

興味のある人にとっての季節だ。

26日長谷川の南センターの昭和医大北病院を行った。喉頭がんの手術でカテーテル治療でする様に変更になったがあまり効かない。

8月1日(土) 2日(日)葉山の御用邸の前の海に行った。芝生で横になり岩場で泳いだ。

40分位水中眼鏡、シュノーケル、足ヒレと軍手を付けて泳いだ。

2日目は、海はがらっと変わりトンボが飛んでいて、水クラゲと小さな箱クラゲが大量発生していた。

箱クラゲは、刺すと痛いのだ。シャツを着て泳いだ。箱クラゲがシャツの外側を何回も通り抜けた。

ヒヤっとした。

9月20日妻の車で、妻の両親のお墓参りに出かけた。5連休で車が混んでいて三浦海岸

公園墓地まで2時間かかった。花のお線香を上げお参りをした。帰りも2時間。

9月21日秋の信州甲州バス旅行に行った。山梨の葡萄園、ハーブ園、長野で諏訪湖で昼食・ 松茸の和食、白樺湖に行って黄金けやきを観賞。チーズケーキ工場の見学し、最後は山梨の清里で、秋のバイキングと言う事で夜の8時30分から9時頃に帰ってくるの予定だ。

 予定通りに見て、高速道路が混んでいて結果夜中の0時55分。JR京浜東北は磯子の終電車。タクシー代5000円かかった。タクシー代は持ち出した。

9月22日葉山の御用邸の前の海に行った。水中眼鏡、シュノーケル、足ヒレと軍手、シャツを付けて泳いだ。成長した箱クラゲが随分水中を泳いでいた。透明で、刺すと痛いのだ。
 シャツの外側を何回も通り抜けた。ヒヤっとした。危ない危ない。30分位泳ぎで切り上げた。

9月23日竹橋の国立近代美術館でゴーギャン展を見た。今日が最後の展覧会だ。
 19世紀末に、株式の仲買人をしていて、34歳頃から画を描き出した。タヒチで有名で画家ゴーギャン。

54歳で亡くなった。最後の日としては、あまり混んでいなかった。

09.11.10