今福 秀一 さん
 グループ・ピアズ・ピアズ金沢(主催者:笠井雅雄氏)による障害者交流会で、
 平成19年7月23日、
発表された今福秀一さんの発症後から現在までの経過です。
 血管障害者、その中でも特に、失語症者の職業の継続・再就職は困難ですが、今福秀一さんは見事に遂行されました。
 勿論、奥さんをはじめご家族のご苦労は言うまでもありませんが、今福さんのお話には、彼を支えてきた会社組織とその人の和の暖かさが感じられます。
 でも私に限らず今福さんをよくご存知の方は、そのような人間関係を構築したのは、結局、温厚・実直な人柄に起因すると思っております。
 最近初孫にも恵まれたそうです。おめでとうございます。

   


                                                                                                                    
 私は8年前のゴールデン ウイーク、4月30日に蓼科の別荘で夜一人でいるところで脳梗塞で倒れました。
 前の晩に泊まっていましたが、それは前に出向していた、東急ハンズから大きな塗料が2缶、届いているかどうかを確認しました。それが、届いていました。

 別荘は傾斜地に建っていて、1階は玄関とトイレと風呂場、地階はLDKと和室の8畳、2階は和室の6畳という間取りです。
 ていの良い、2LDKです。
 地下は広いテラスが付いていてそこの床をペンキのキシラデコールの黒で塗り、外の階段を古い枕木で出来ていましたのでコールタールで塗る2缶でした。

 確認して、その日は寝ました。

 翌朝、私が起きてみると、頭がくらくらし、目をつぶってもくらくらする状態でした。
 こんな状態は初めてでした。
 前の日に薬局で貰った頭痛薬が効いたどうだか忘れましたが、1時間位でもとに戻りました。
 今日は、蓼科は観光客が来るので、家でノンビリとペンキ塗りでもしようかなとそう思っていましたが、こんな状態で、どうか迷いましたが、結局ペンキ塗りをしようと言うことに決めましました。
 夕方ペンキ塗りが終わりました。玄関の傍にペンキ類を片付けました。やれやれと思いました。
 明日から、本でも読めるぞと思いました。
 風呂に入り、出て散歩に行きました。6時位でまだ明るかったのです。
 散歩の途中で次第に暗くなって来ました。
 帰りがけには、とっぷりと暮れました。

 また、頭がくらくらし、目をつぶってもくらくらする症状が襲ってきたのです。
 急いで家に帰りました。家から舗道に出ました。
 縄跳びをしたのです。縄跳びする習慣になっていたのです。
 縄跳びをするかしないうちに、バッタンと倒れました。意識は有ったのですが、体が言う事を効かない。
 地面を這って遊歩道に乗り上げました。

 それからしばらくして、付近の車が来ました。
 初老の男性が運転し、家族が乗っていました。彼は車のから下り、家族も全員下りました。
 彼は、私が酔っぱらっていると思い、抱き起こしてやろう思ったのですが、私が酒臭くはなく、それでピックリしました。

 当時携帯電話がなかったのですが、女性が家に帰り、電話をしました。
 サービスステーションに電話をしたのでしょう。
 蓼科の別荘のサービスステーションにすぐに119の救急車に連絡し、担当者は現場に駆けつけました。
 しばらくして、救急車が来ました。私が救急車に担架で運ばれその担当者も乗ってきました。

 担当者は「しっかりしろ。」励ましてくれたのです。

 救急車は、新しい介護施設も完備された、長野県の「南諏訪病院」に着きました。
 家族と妹のふみ子は、蓼科の別荘のサービスステーションの連絡を受けて、夜中に車で病院に来ました。

 妻の話では、左脳が麻痺し右の体が不随している状態。特に右の手が私の体の下になっていたので親指から小指まで、ペッタンコに潰れているという有様でした。

 ゴールデン ウイークが終わりました。
 家族は一旦車で帰りました。

 リハビリが始まりました。

 病院とは別に、リハビリテーション場でありました。アルプスの山々が見えました。
 広い体育館の様なリハビリテーション場で、外には芝生と花壇がありました。

 月曜日から金曜日まで、言語聴覚士とリハビリテーションを1時間ずつ受けました。
 言語聴覚士つまり「STの先生」は若い女性の先生で、リハビリの先生は若い男性の先生でした。
 STの先生は、私が言葉は何にも言えなかったのですか、5月19日には「こんにちは」だけは言えるようになりました。
 リハビリの先生はペッタンコになっていた指を「親指」だけ、ほんの少しだけ動かせるようになりました。

 5月19日に転院しました。こんどは厚木の七沢病院です。

 妻が手配したのです。

 丹沢のふもとにあり、七沢温泉で有名なところですが、その病院も温泉が有りました。
 主治医が決まり、STとリハビリと体操の先生方が3名つきました。
 STとリハビリの先生は、中年の女性の先生、体操の先生は中年の男性の先生でした。
 予定表は週間予定表で月曜日から金曜日まであり、
 例えば月曜日は、1時限目はSTの先生、2時限目はリハビリの先生、昼食の時間を挟んで3時限目は体操の先生で4時限目はもとに戻ってSTの先生という順番でした。
 毎週、水曜日だけは午後授業がなく、職員会議です。暇ので、楽しかった。

 妻も1日措きで、車で来ました。
 車で金沢八景から鎌倉を通り抜けぬけ134号線で江の島、茅ヶ崎を通り平塚橋が車が混んで大変でした。
それがら、厚木に行って丹沢の麓まで行って、片道1時半から2時間かったのです。
 妻は洗濯物を出し入れしたり、細々とした事を売店で買ってくれたりしました。
 7月、8月のもっと大変だったのは、湘南の道路です。
 車で片道5時間半から6時間かかることもザラでした。往復12時間でした。

 幸なことに、STの先生は私が、単語は喋れるようになりましたしと言っても量は限られていますが。
 体操の先生は、毎日最初に10分間を右手の指を揉んでくれて、(中国の療法で)親指から小指まで力は有りませんが、傍目には自由に動かせる状態まで回復したことでした。あとは、力を入れれば良いのです。
 それに合せてリハビリの先生は右手で箸を持てるように練習をさせて、力はありませんが箸を持てるようにしてくれました。
 50代にもなって箸の持ち方を練習するなんて思わなかったなあ。

 車で時間がかかることもありまして、9月1日に退院しました。
 ゴールデンウィーク4月30日に倒れ南諏訪病院に入院し20日間、七沢病院に転院して3ヶ月10日、都合4カ月間の療養生活でした。

 横浜に帰ってきました。

 今度は、病院は通いになりました。 
 磯子の横浜市脳血管センターに妻と行きました。

 病院は、診察とリハビリの2種類在りました。その2つ共に受けるのです。
 リハビリはさじか部長とSTの吉野先生の担当者です。

 1ヶ月に1度診療が廻ってくると、リハビリのさじか部長はその場で「傷病手当」を書いてくれました。

 さじか部長が退職して3ヶ月の間は、診察の先生に診てもらったので、2週間〜3週間か「傷病手当」にかったので、いらいらしましたが。
 部長の下はSTの吉野先生でした。吉野先生は現在筑波大学の助教授になっています。
 吉野先生の授業は、火曜の午後1時から1時45分まででした。45分間でした。吉野先生は別の先生の授業も紹介てくれました。
 金曜の午前9時45分から10時30分までの45分間の集団リハビリの授業です。
 もと患者さん5名で始めたんです。それを見学し、私は後で参加をしました。
 集団リハビリの授業は1ヶ月たち、2ヶ月たつと次第に辞めてきました。
 前の会社に復帰したり、新しい職場に就職したりしたそうです。
 とうとう3名になりました。これではいけないと思ったのでしょう。
 看護婦さんが入院患者にも募集しました。1年後には10名なりました。

 私は、日記は書いていましたが、読むのに遅いのと、字が目には入るのですが、つっかえてウロタエイでまったことが「まま」ありました。10人ともなりますと、日記を読む時間がありませんので辞めてしまいました。

 もうお気づきの方も有るかもしれませんが、文字は読めても、私は文字を書く事は出来なかったのです。
 私は文字を書く練習し、この文章は、私が自力で打ちました。
 99の計算も出来なかったのですが、小学校の1年から4年の問題をやりでようやく回復しました。
 辞めて傷病生活が9月には、1年4ヶ月が経ちました。

 その前の6月下旬に吉野先生が新横浜駅の横浜市総合リハビリセンターにいらっしゃった事あり、そこにある「職能開発センター」で「復職について」の話があると説明しました。「行ってみませんか?」と言った。

 むろん承諾し、私と妻と吉野先生が、申し込みをしました。

 7月中旬に「職能開発センター」で「復職について」の話聞きました。
 松田係長が大変良い説明をしました。

 私と吉野先生が相談し、入園の申し込をしました。
 松田さんその部下の女性が試験を色々しました。

 8月中旬に入園が許され、9月初旬に入園しました。
 入園時間は午前9時15分から午後4時までです。
 何時、出席をしてもいいのです。私は、出来るだけ出席をしました。
 最初の1ヶ月が、作業をしながら研修期間です。

 2ヶ月目からパソコンのエクセルやワード、模擬会議、電話訓練などを訓練を受けました。
 作業をしながらの合間にしました。

 それから、半年間訓練しました。さらに半年間の延長をしました。

 会社は8月下旬から9月下旬までの1ヶ月間人事グループで様子を見ました。会議にも出ました。
 適正を見るためでしょう。平成15年10月20日に晴れて復職をしました。
 人事課で、人事の仕事で、パソコンの仕事をしたり、資産活用部で介護保険に関する仕事です。

 私は60歳になり、今年の3月15日に定年退職して、今も嘱託として元の会社に勤めています。

                                                             






 血管障害による中途障害者や若くして障害を負った場合は、当然就職の問題は最も重要な課題です。
 折りしも、2007年7月13日、朝日新聞夕刊1面に『障害者雇用率』というタイトルの記事が掲載されました。
  それをご覧下さい。
  障害者雇用率
 中小企業にも「罰金」 
 厚労省方針 未達の適用拡大
 
 
2007年07月13日17時45分

 厚生労働省は13日、企業に義務づけている障害者の法定雇用率(従業員に占める障害者の割合=1.8%)が未達成の企業に課される納付金の支払い義務を、これまで免除されていた従業員300人以下の中小企業にも拡大する方針を固めた。納付金は事実上の「罰金」で、大企業に比べ雇用率が低い中小企業の障害者雇用を促す狙いがある。今秋から同省の労働政策審議会で審議を本格化し、来年の通常国会に障害者雇用促進法の改正案を提出する考えだ。

 同法では、従業員56人以上の企業に法定雇用率の達成を義務づけ、未達の場合は従業員301人以上の大企業に限り、不足人数1人につき月額5万円の納付金の支払いを課している。

 今回の改正では、この支払い義務を一定規模以上の中小企業にも拡大する。従業員56人以上300人以下の中小企業のうち、現在法定雇用率を満たしていない企業は約55%ある

 一方で、中小企業は現在、雇用率が4%を超えるか雇用した障害者が6人を超える場合に、基準を上回る障害者1人あたり月2万1000円をもらえるが、法定雇用率を上回りさえすれば、大企業並みに1人あたり月2万7000円を得られるようにする。

 だが、経営基盤が弱い中小企業が多いため、支払い義務を拡大する中小企業の規模は今後、検討する。納付金の額も大企業より下げる可能性もある。障害者を受け入れる環境を整えるため、障害者の特性にあった仕事を社内に探し出すチェックシートの作成や、企業と障害者との対話を手助けするジョブコーチ制度への助成金の拡充なども、あわせて検討する。

 中小企業については、76年に納付金制度を始めた時に、障害者の雇用率が大企業を上回っていたことや経営体力の弱さに配慮し、納付金の支払い義務が免除された経緯がある。しかし、中小企業の雇用率は年々悪化し、06年も従業員1千人以上の大企業の平均雇用率1.69%に対し、100〜299人の中小企業は1.27%にとどまった=グラフ。また、高齢・障害者雇用支援機構による05年の調査では、「法定雇用率を守るべきだ」との趣旨を回答した中小企業は約4割にとどまり、大企業の9割との差が際だった。

 ただ、中小企業数は大企業の約4.5倍とすそ野が広く、身近な地域で就職を望む障害者には雇用の受け皿として期待も強い。このため厚労省は、納付金の対象を拡大して中小企業の雇用率を改善させることが不可欠だと判断した。

 


 なお、障害者雇用率についての詳細な説明をお知りになりたい方は以下のURLをご覧下さい。

  障害者雇用率制度の概要

 「障害者雇用率等について」の諮問及び答申について

  障害者雇用率制度について

  基礎知識のコーナー

 

                                               07.7.26.



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