03.10.20.書
05.12.10.追加
06.06.30.追加
      失語症と言う言葉を聴いたことがあるでしょうか。私自身脳障害になるまで一度も聞いたことも何
    かの文字情報でも目にしたことがありませんでした。教養のないことを恥じる前に脳梗塞の発症以前は
   「障害」ということ自体に余り縁のない生活でしたから、障害者について観念的には了解していても実際は
   迫りくる実感がなかっと今更思います。それでも私は体育関係の会議では予算でぎくしゃくすると”体育行
   事に参加している皆さまは世の中で強い人たちなので必要経費は自益者負担で賄って老人や母子家庭
   や障害者に回すのが筋”と憎まれ口を言っていたを、皮肉にも、現実の逆転のもと、昨日のように思い出
   します。

    
ですから、私の場合は発症で入院し、意識が戻っても失語症の実態やましてや「失語症」という言葉な
   ど到底理解できませんでした。普通の健常者の方の場合は、身内や知り合いで係わったことがある場合
   や職業として積極的研究・勉強している医学関係専門者以外理解いただけないものと思っています。
    勿論それでよいとも思います。しかし、ヒトの世の広がりとその歴史に包含される時間的・量的・質的変
   化の多様性を鳥瞰する際に一粒の砂かも知れませんが、改めて考えてみたいと思っています。
    私が現職の教員であったとき、介護施設の所長を招き福祉介護の講演会をして戴きました。女性の経
   験豊かな話上手な方でしたので、最初は余り興味なさそうな内容でも飽きさせないよう配慮しつつしかも
   勘所にはめりはりをつけて卑近な例を挙げて説明しました。
    ”重度の障害児で何でも食べちゃうですよ。胃は健康なのでしょうね。ある日、看護婦のボタンがないと
   言って困っていましたところ、それが見つかったんですよ。皆さんは何処にあっと思いますか。‥‥何とそ
   の子の排泄物を整理している時に担当看護婦が見つけたんですよ。‥‥”    お話が続きました。
    私はその後所長の自然に出てきた言葉にショックを受けました。
    ”でもねえー、着替えや喋ることも何もかも介護なしにはできない彼を研究して博士になった人は3人も
    いるんですよ。立派に社会に生きてるんです。世の中には要らない人はないんですよ。彼は功労者
    ですからね。” 
          ‥‥もう何年経ちましたでしょうか。
    
     脳障害者として人との交わりを失いやがて回復途上にあると思える今同様の病気に罹った
         方々の在り方を今後を含めて大乗的に考えて見たいと思っています。
   
    失語症とは何かと言う説明は最近はホームページで見かけることが多くなりました。しかし、実際の具
   体的状況は理解頂けないようです。参考に私の”体験談”をお読み下さればその中に専門家の定義を入
   てあります。
     今回は有限会社ベイゲットの後藤卓也氏の解説を引用します。

    脳損傷によって出現する言葉の障害で、言葉の機能}(聞く、読む、話す、書く計算)のすべての面に
    何らかの困難が生じる症状です。
    症状は、脳の損傷の状態によって様々になります。
     症状  A:喚 語        考えていることを言語にするのが難しい状態です。失語症の人には見
                      られます。
         B:錯 語        考えていることとは別の話が出てしまう状態です。その他言葉の中の
                      一部の音が他の音に変わってしまう場合があります。この場合、誤
                      解されやすいので気をつける必要があります。
         C:ジャーゴン      全く意味をなさない音のつながりや単語のつながりが出てしまう状態
                      です。この場合、言葉の理解も悪いようです。
         D:文法の障害    言葉を組合せて正しい形の文をつくることが難しい状態です。
         E:発音の障害    考えている言葉とはちがう発音をしてしまう状態です。
         F:聞いて理解     耳で聞こえていますが、言葉の意味がわからなかったり、早口の話に
           することの障害   ついてゆけないことがあります


  
 しかし、以上の症状の境界は判断が難しく錯綜いているようです。周囲から見れば殆どその表情の違い
  が分からず、従って、専門家は別にして一般的には、詳細な分析は別にして言語障害として括るのが無難
  な受け入れ方と思うのです。しかし、当事者としては重い問題です。科学的に脳構造の分析・生理機能等
  の研究・治療任務に携わる関係者から見れば、素人の私の判断ですから笑止千万かもしれかせんが、私
  の経験的な判断としては、見かけは同じ言語障害でも「失語症」と「まひ性構音障害」は分けて考える必要
  を感じています。

   そこで現在私が皆様方に考えて頂きたいことは主な目的は失語症になった患者の現状です。
   脳血管障害で肢体の随所に麻痺が残るのは避けれないことで、その障害度を認定され、程度の差こそ
  あの辛いリハビリを経て回復に向い、年齢が高くなければ(高くなくても生涯現役を通したい人もいるでしょ
  うが‥‥)当然職場復帰(社会復帰)を目指すでしょう。
   ここでこのページの問題提起があります。
   最近、私は一人で出掛けることが多くなりました。二ヶ月前まで病院の定期診断にも妻が付いていまし
  たから随分周囲が広くなったと思います。私が多く方々に会う機会に恵まれ脳血管障害について分かっ
  てくると、疑問がだんだん増大します。
   ある会で脳障害で倒れた方が地域で同じ仲間と交流・活動する組織作りに応援要請に来ていまいた
  が、その方は”ボランテァが先に準備や企画し、その指示に従って行動するのではおかしい。その点を行政
  に働きかけているんだ”と熱心に語りかけていました。私の質問に対し、その答えは、”障害度1、発病から
  1年、言葉は始めは出なかったが、ある日突然蘇った”、ということでした。
   また『私のリハビリから社会参加への道』と言う講演を聴きました。
   講演内容は氏の薀蓄が凝縮しており得心できる展開であり、”頭のいい人”と一目に分かる方で、よく
  通る声で私はその迫力に圧倒されました。
   同じ脳障害でもこれ程の違いに茫然自失でした。
  
レジュメを見ると、1992年1月出向先で商談中、脳出血。92年9月21日〜復職、となっております。
   勿論、リハビリから復職後の氏の独自の経過は聞く人には大変意味深いもので大いに参考になりました
  が、実は、お話を聞いてうちに気になって私は横の人に尋ねました。
   それで判ったところ障害度が2級でした。

   脳障害になった後活動している人たちは個人と団体を問わず多数おりますが、失語症の情報が余りな
  いことに戸惑います。始めは私は失語症の患者の数が少ないことが原因と思っていましたが、実は主な
  原因はもっと他にあるのではないかと考えるようになりました。
   数多い脳障害の関係団体のうち失語症者の団体では、恐らく専門職の言語聴覚士(ST:Speech-
  Language-Hearing Therapist)の指導なくては運営が難しいではないでしょうか。また、STがいなくて何だ
  かのやり方でボランテァ(家族を含め)が係わっていない場合はあり得ないと思います。
   要するに”自立”という文字とは最も遠い組織としてしか把握できないのです。
   失語症の場合先ず第一に事務能力の損傷が多く、運営は余程恵まれた条件を持っていなければ健
  常者の助けを借りないと無理と思います。また、普通連絡方法としとは電話は大変便利なものですが随
  分回復した後でないと電話は苦手です。手紙は時間がかります。メールはまだ誰でも使えるものではあり
  ません。自己表現が大変難しいのでので、まして自己主張なと考えられない状況だと思います。
   情報伝達手段をもつものがコミュニケションをリードします。その際、情報管理能力以外に、場合によ
  っては行政による関与、つまり具体的には予算と施設の使用により、やがてピラミット型ならぬ灯台型
  組織が構築されます。
   従って、失語症の会には情報の偏りが生じ易く『
一将功なりて万骨枯れ』と言う結果になることが多く
  なります。会員の為の会である筈ですが全て健常者の家族等の事務局の設定に従い指示を受けて活
  動すると言う逆転現象を逆らうことなく受け入れなければならない現実があります。元々誰も悪い人では
  なく寧ろ積極的なボランティア精神の旺盛な方々の筈なんですが、この陥り易い必要悪はまさに失語症
  の検証になると思っています。
   ですから先の方が自分たちで”自立”して立ち上げたいと言う意欲は、病気以前は世の中で主役とし
  て支えて来た自信と誇りがあればこそ、共感できるのです。
   かってアメリカの高官が日本を訪問したとき言った印象深い言葉がありました。
   「情報は民主主義の通貨である」
   私はペシミストではないのでこの言葉を行動の指針でありたいと思っています。
   でも、現実は厳しいですね。
 
   しかし、誤解しないで下さい。失語症でも個人差は相当ありますから、特定な個人をもって反論しな
  いで下さい。私もその落差に戸惑ったことがあります。私も”あなたがこの会にいるのは相応しくない”と
  直接言ったこともありますし、ある会に行ったときは、流暢の喋り、会話の主旨も筋が通っている方のお
  目にかかり不思議に思え質問したところ本人がよく自覚しておられてその経緯を説明されましたが、そ
  のような場合は稀で実際に失語症の姿は余り知られてないと言っても言いすぎではないと思われます。
   全てに共通な事ですが、若い人の場合は回復は早く、特に交通事故のような外的原因等全く異なっ
  た経過を経て復帰に向かうようですが、今はこの病気の多い高年齢に焦点を絞って考えたいです。
   (*この点について後に触れたいと思いますが、交通事故が原因での失語症の方もあります)。
   失語症の集まりでは、近況報告など個人の発表の場合、STの誘導があることが普通でその上発言が
  出てこないので付き添いの家族の援助でいき詰った会話の糸口を読み覚まし、暫くの沈黙の後会話を
  続けることが多くあります。そういう時の身内の対応は真剣そのもので焦燥感があります。また、始めか
  ら自分で原稿を作ってくる方も珍しくなく会場でそれを読み上げする方もおりますが問題はその後です。
   STの力量が問われます。
   内容はまちまちのようです。
  
   私が紹介を受けて参加した失語症友の会ですが、会員は約10名の会でした。
   創立当時は指導された医師及びSTがおられと聞いていましたが、私が入会したときから一度もお出で
  になりませんでした。しかし、STがいなくてもまったく不自由をしておりませんでした。むしろ、STのいない
  ことで誰にも憚ることのなく会員の相互の固い信頼に守られいました。それは前提としてその会の必要の
  認識が浸透しているからこそ、第三者には判らなアットホームな会話が展開するのが通常ですでした。
   発言者が発言に戸惑う場合、その場にいる仲間が発表内容についてコミュニケションの発展の為いろ
  いろ質問しますが、殆ど答えられないのが多いのです。
   ある会員の近況報告について触れますと、この方は何時も事前に報告内容を記入してあるノートを読
  み上げます。恐らくご家族の協力があると思いますが、心のこもった文面でありますし、その方の生活が
  率直に滲み出ており、同じ様な境遇を共有する体験者として共感を以って私は楽しみにしておりました。
   あるときはお孫さんが来ると言うことで、蟹や小魚を獲るための子供用の網を購入し、近くの海岸に
  海水浴に連れて行ったときの様子をお話しなされました。
   ”その海水浴に行った所は何処なの。   ‥‥じゃあない?、  違う?、それじゃー‥‥でない?、
  ‥‥?、 ‥‥ 何を見つけたの、 ‥‥”。答えが出てこないのです。皆さんには労わりの気持ちが伝
  って来ます。仲間こそ共有する共感があります。
   (
しかし、幸いに障害に係わることなく生活されておられるので障害の現状に無知の方々やあまり関心
  の無い方々が無味乾燥した視点で垣間見るとき誤解を招く虞があり、また個人の名誉のため通常は具
  体的詳細は言えないのが率直な思いです。
   この方の場合はとっさの対応に対する混乱と記憶喪失が伴うのであり日常会話では相手を思いやり、
  仲間との旅行にも細かいことまで世話をやき、充分とは言えないとしても、コミュニケイションには不自由
  していないのですから。気さくな人柄はお孫さんを囲んだ裕福な家庭が想像できます。それより私は会話
  なかで時々言われる「忘れたなー」と云う一語が気になります。因み申し添えますが、この方が認定され
  ている障害度は6です。
   しかし、私も同様ですが、これにも今の医療関係者の問題があります。その方は発病後8年経過して
  いますが身体障害者手帳を受けたのはそれから大部時間の経った今から2年前だそうです。最初の対
  応が充分であれば、つまり、適当な担当者が然るべき時期に身体障害者手帳の申請の面倒を見て呉
  れれば、今の手帳の記述内容 「6級 右片麻痺」 が最低でも 「4級 言語機能障害」 にはなってい
  た筈です。それは通院病院の担当者が交代したので新しい担当者が申請してくれたと言うことです。

   
   
私の場合は突然言葉に窮することは日常茶番です。それはエアーポケットに入ったように言葉と記憶が
  消えてしまいます。この文章をかいているときも、突然の驟雨に伴う稲光の閃光に驚いたとき、雷(かみな
  り)という言葉がどうしても出て来いのでイライラしていも一向に対策が分からない。辞書も巡っても頭の中
  は空洞で何の役にも立たない。随分たってから、気障(きざ)と思うでしょうが”いかずち”を思い出し早速辞
  書で”かみなり”を見つけました。ホッとして溜息がでました。
   後になると莫迦らしい位容易な記憶や言葉、「治療」(「ちりょう」は‥「ちよう」)、「把握」(「はあく」は‥
  「はわく」)等の他に書けない多くの文字や文章がありました。一文字位たいした事はない思うでしょうが、
  その度毎に思考が中断し、それも場合によっては長い時間中断するので私の書く文章は文脈が乱れ主
  旨は一貫制を欠き、何時も修正の予期に不安をもっています。
   誤字、脱字には毎回悩まされます。

   勿論、年毎に回復し会話がスムースになるようですが、繰り返しますが、個人差による微分値は違う
  でしょう。しかし、林仮説に基ずくとテーダーの解析によると『
失語症は発症後3〜4年以降は回復度
  (%)が、とても低くなることが分かります。言語訓練もこの時期が限度ど思います。
』と言う事です。
   そして何より気になるのはどの専門家の解説によると『
復職がとても難しいことです。
   現に若い人はよく分かりませんが、はっきり失語症と診断された方で職場復帰した方はどうでしょうか、
  私は世間が狭いので合ったことはありません。しかし、身体障害者障害程度等級表によると、失語症
  に係わる部分は「
音声機能、言語機能、又はそしゃく機能の喪失」は級別では3級乃至4級になって
  います。実際には肢体に麻痺等を持っている場合は当然2級、1級のもなりますが、失語症の内蔵す
  る課題が余り理解されいない嫌いを感じます。
   表面では症状が見えない失語症の実態に即した条件整備を期待しています。
   しかし、すべて己が正しいとか被害者意識が有り勝ちですから、私は横暴さに対し真摯に努力すべ
  きたと思っています。

  
                                            2003.10.20

                *追記(
上記友の会についての追記 05.12.10)

   一時、私はSTに辟易しておりました。ですから、STの拘わりのない、会員独自に運営されている
  失語症友の会を希求しておりましたので、紹介を受け初めてこの会に参加したときは何処か肩の力を
  抜いてリラックスできる開放感を感じていました。
  しかし、参加当初、会員の皆さまの会話をいろいろ伺っていて、「失語症」になった方々がこれまで
  回復するものとは考えていませんでした。参加者の方の発言の内容及びその対応姿勢等は私が以前
  経験のないもので全くボランテァを必要としないものでした。
特に年齢が70中頃の長老の方Aさんの
  発言は、逆に私には脅威でした。
   発言の発声及び内容のどれを観ても淀みなく、寧ろ周囲を気遣うゆとりを感じました。
   失礼をお詫びし、失語症の経歴をお聞きしましたとき、脳梗塞で担当医の診断で手帳が交付され
  た、以前は材木を扱い会社を経営していたが、発症後は銀行の口座の管理、取引に支障を感じご
  自分の立場に対する責任上、当時の一番番頭に会社を譲って引退されたようです。
   近況報告には海外・国内共に旅行のことが多く、また趣味を広いようです。
   私も会の旅行に同伴しましたが、旅行の行程・予算等のスケチュール表は確実なもので参加者は
  安心して任していました。勿論、事情を知って対応すると、随所に失語症の症状は分かりますが、
  失語症と言われていなければ恐らく気が付かないと思います。
  何回か出席しているうちに分かりましたが、この方はこの会では会計をやっていますが、県の失語症
  友の会連絡協議会(県失語連)代表を務めていると言うことでした。

   
   私がこの会を知ったのは、別な血管障害による片マヒ者の研究会に参加し、そこでこの失語症の
  会の会長(代表)のBさんに紹介されたときでした。
   
Bさんは元通産省の役人だったそうです。肢体が2級でしたから杖を使用していましたが、言葉の
  交流には全く不便を感じませんでした。
  (勿論、私は失語症者以外の方、つまり、言語障害の全くない人たちから見れば、失語症の特徴と
  しての症状は回避できませんが…後述…)
   Bさんに伺ったところ生誕は昭和11年であり、後に拝見したBさんの手記によると、
   “昭和63年9月20日午前11時頃、貿易センター本部で会議中発病意識不明になり看護師の指示
  により救急車富士の脳障害研究所付属病院に入院した。本人は意識不明ありましたが、モヤモヤ病
  に脳出血及び脳梗塞と診断され、数日後の意識回復後、直ちに失語症の後遺症のリハビリテーション
  に入りました。
   同11月七沢病院脳血管センターに転院し、失語症並びに右麻痺のリハビリ訓練、主として言語と
  運動を受けました。平成元年8月中旬退院以後、在宅で総合リハビリセンターに通い、主に言語訓
  練を受けました。その後センターの卒業生等を中心に失語症の友の会を作り、全国失語症友の会に
  加盟しました。”

   従って、私がお遭いしたときには発症後16,7年経過していたことになります。

   通常、言語障害、つまり、コミュニケイション障害者である失語症者が、如何なる障害者の集まり
  でも常にハンディを持ちながら参加する事は大変な事です。私も何度かいろいろの会に同席しましたが、
  特に自他共にレベルの高いと認めている障害者のK研究会は、たまたま私もBさんも会員になってい
  ましたが、私が常に黙って聞く事に終始していたのは違い、彼は一瞥で判る見識の豊かな会員の中で
  議事運営に進んで参加していました。
   主題の程度が高ければそれなりの表現力が暗黙に要求されます。まして失語症を配慮されないので
  すから、それなりのプレッシャーがあった事は確かな事だと思います。

  こう云う方が会長(代表)である事を頼もしいと感じていました。

   この会は毎月1回の定例会を開いていますが、最初開会挨拶及び事務連絡があり、次に
  事務局長Cさんによる今月の県の行事板書紹介という形で、白板に書いた項目により県の
  主だった行事、
  (例えば8月の場合は、【文月ふみつき】6〜10平塚七夕まつり、8横須賀市公園朝顔・ほうずき市、
   10白秋まつり・江ノ島天王祭り(小動神社)、15お盆、16久里浜ペリー祭、17みなと祭り花火、
   18海の日、浜降祭、20川崎大師風鈴市、27三渓園朝顔、31芦ノ湖湖水祭)を紹介します。
   この報告が失語症の会との係わりについては理解できませんでしたが、何回か出席しているうち
  事務局長Cさんの個人的拘りの傾向がたぶんにあることを、Cさんが作成しているこの会の会報及び、
  Cさんが担当している県の失語連(県失語症友の会連絡協議会)の事務局書記として主体的に
  編集・作成している失語連の会報・“ことばの輪!こころの輪!”を通じて、私は納得しました。

   その点、このような会では通常担当者の分野にはかかわらないのがある意味で礼儀であり得策
  ですが、会長Bさんが月の表示にクレームを付けたことがありました。私は寧ろ新鮮な事と興味を
  もって聞いておりました。
   Cさんの月の表示は常に陰暦表示で、1月は睦月、2月は如月となっています。それについて場合に
  よっては行事の日程が陽暦表示に合わないことを部分的に指摘して議論めいたことがありました。
   私の判断では理論的にはBさんの言う通りと思いましたが、文章構成の在り方の見解が合わなく物
  別れになりました。
   勿論、その後も陰暦表示を続いていますし、会員にとってはどちらでも構わないことですから。

   ただ、こう云う一面を持っている人間関係が私には眩しく映りました。

   Cさんは脳梗塞、多血症になり、左眼一部狭窄、軽度の失語症になり一時は休職したがその後復
  職し定年退職し、お世話になった方の勧めで失語症のために協力しているとのことでした。
   しかし、失語症の症状は全くありませんでした。肢体も会員の中で最も正常な方でした。
   学生時代の新聞の編集の経験があると申されていました。
   またその経験と趣味と思われることが、会報や定期総会の議案書等の編集・文字配列及びカットの
  配置に現れておりました。

   そしてその会はその後、Bさんの司会で会員の1ヶ月の近況報告に費やすことが主眼になっていまし
  た。会員数が少ないので失語症の仲間の中で個人個人お互いに踏み込む、約3時間の中で大半を
  費やす最も貴重な時間であり、ここでいろいろ失語症を学ぶ事がありました。

   私が上の本文で記述した場合の会話はこの時の事です。
   この時の方、Dさんは毎回ご自分の近況報告を几帳面な文字でノートに書いて来てそれをゆっくりと
  読み上げます。

   私は失語症の典型的症状の方と実感しました。その内容は上の本文の、「近くの海岸に海水浴に
  連れて行ったときの様子」から想像して下さい。

   しかし、彼がかって大空を颯爽と飛翔していたパイロットであった姿は到底想像は難しい事です。

   実はDさんと会長のBさんは特に入魂で私が発症後初めて一人で湯河原の旅行に参加した際に、
  待ち合わせ時刻の変更に合わせ地理不案内の私を慮り、湯河原の駅でお二人とGさんで待ってく
  れていまし
た。
   旅館ではDさんはBさんの湯着の着せ替え等の身の回りの世話をやっていました。
   平成16年の愛知の失語症友の会全国大会にはAさんのスケジュールによりAさん、Bさん、Dさん、
  Eさん、他の会の方、私も含め6名で参加し、帰りに花の博覧会に寄りました。
   其処でもDさんは肢の不自由なBさんを車椅子に乗せて園内を回りました。

   失語症ではありませんでしたが以前交通事故で頭部に障害を負った元警察関係のお仕事に携って
  いたと聞いていましたEさんは、特に旅行の際にはお世話になりましたが、何処に行くにもいろいろ気配
  りを頂き、その都度、私は甘えでしょか、些細なことまで相談しておりました。人生の先輩として頼りかい
  のある方でした。
   ですから会場の移動の時には行き先の道程が分からない私を何時も誘導してくれました。

   そして、その時にはDさんが切符の行く先を説明し購入ボタンを押して呉れました。Dさんのお蔭で横
  浜の地下鉄は障害者運賃が子とも料金でよい事を知りました

   しかし、その平穏もあまり長くは続きませんでした。

   
昨年暮れK研究会のクリスマス会の際にBさんは司会をやりました。

   K研究会はレベルの高い会といいましてもなかなか説明に窮しますが、会の内容を具体的にいいま
  すと、会員の日頃の関心事や研究課題を発表・討議します。ですから、会長はじめ会員が特に障害
  後それに係わる著書を発刊しておれる方が多いのです。
   会員から、「唯脳論」  ちくま文芸文庫、    養老孟司、「バカの壁」 新潮新書、
   「壊れた脳 生存する知」 山田規畝子 講談社 等々解説がありまた薦めれられた事もありました。
  実際、私も購入したものもあります。
   一時は、何回に分けて上田敏著「リハビリテーション」より、「障害の受容」につて会長より講義と会員
  の討議がありました。

   このクリスマス会はこの会の恒例行事になっており、今年も前年度と同様に、会員のお知り合いの方
  の紹介で、歌唱の専門家がエレクトーンを携えてお出でになりました。夫君は障害を負っておられるそ
  うですが、品良い控えめの御婦人ですが張りのある声と指導力で会場を明るくさせる方でした。
   この日のBさんの出で立ちは今までお目にかかったことのない洒落たアスコットタイをつけ、華やいだ
  動きが眩しい感じでした。

   1部の会議の終了後、Bさんの出番になりました。Bさんは大きな声で語り掛け会場の雰囲気創りと
  進行に一生懸命でした。
   指導者の補助をして
   「先生に習って、その1小節毎に、そちらの方から順に、…そうですよ、ベルを高く挙げて振って下
  さい…」
   私も先生の指示で慣れないハンドベルの操作をやり直ししながら、そして戸惑いながら、エレクトーン
  のリズムに背を押されクリスマスソングを歌いました。

   …この日のBさんは何時もBさんではありませでした。

   艶やか流れと裏腹に緊張が限界ではないかと、私は、不安と共に何か良くないことが起こりそうな予
  感を感じていました。
   しかし、他者の世界に入る事に対する後ろめたい気持ちもあり、独り善がりな杞憂と自ら考えないよ
  うにしておりました。

   
そして、その翌日K研究会の事務局長からメールが届きました。

     皆様へ(謹告)

    今夕、×× ××様の奥様からお電話がありました。

    今朝、零時半ころ、×× ××さんがトイレに立たれ、倒れたそうです。
    病院の検査では、脳幹に出血しており、意識がまだ戻っていないそうです。
    そのようなわけで、お見舞いは当分見合わせて欲しいとのことでした。
    ××さんの回復の早からんことを、お祈り申し上げます。
    ××さんが、身体を張って私たちに「冬の寒さの怖さ」を教えてくれた、と受け止めました。
    皆様、××さんの教訓を無駄にしないよう、厳しく注意・対策いたしましょう。
 
   それから9日後、K研究会の事務局長から逝去のメールが届きました。
   ただ、悲しい事にこの9日間に失語症の集まりは忘年会が通常通り行われ、そこでAさんとDさんが
  簡単な説明があったのみでした。

   葬儀の帰り、K研究会の親しい方々と食事をしました。当然ですが皆さま方にはBさんへにの生前
  の
思い思いの惜別のお話をされましたが、そのなかの言われた一つに
   「××さんは、大学の時応援団に入っていたんだそうですね。だから、あれだけ大きな声がだせるん
  ですよ。…」
   この一語に将に胸が締め付けられる思いでした。

   失語症の私には分かるんです。
   見方を変えて下さい。3月〜11月でほぼ日本全国で見かけるモンシロチョウは、私たち人間が見ても
  オスとメスはほとんど同じように見えます。一般的にはオスとメスの違いは羽の付け根の黒さで判断し
  ます。黒い部分の多いのがメス、少ないのがオスとされていますが、両者を比べないとなかなか判断が
  難しいようです。しかし、複眼のモンシロチョウの目は人間では見えない紫外線を見ることができますか
  ら、オスとメスでは見え方が全く違うのです。人間では紫外線に感光する写真を撮って確認できますが、
  モンシロチョウは生まれながら備わった能力(?)ですぐにオスとメスが判断できるんですね。

   同様に、失語症者にはそれなりの特有の触覚があります。それは同じ波長を受け入れことができる
  触覚ですから、恐らく健常者にはSTでも理解し難いものと思っています。

   失語症者の言葉にはイントネーション、つまり抑揚・語調の変化がなくなっています(私はそれを
  失語症の回復の一つのバロメーターにしたいと経験的に考えています)ので起伏を失った平面的な
  表現になります。
その波形を感受できるのはその波長に共鳴できる失語症者の感覚です。

   従って、健常者に同化するには想像以上の緊張が伴うことが分かるのです。

   彼の言語がずいぶん回復しても健常者の発音と内容・語彙の区切りが大分違いに残ります。
   専門的には失語症の分類類型はよく分かりませんが、失語症者に対面すると、目を合わせながら
  言葉が出てくるまで時間がかかる場合があります。一寸、間をおいて出てくる言葉には中断していた
  堰をやっと越えたときと同じ迫力があります。
   つまり、発音毎に、心して、大変エネルギーを消費します。
   例えば、水滴を和紙のような紙とサトイモの葉の上に落とした場合に似ていると思います。
   和紙に落とした水滴の場合はそのまま境なく連続的に微妙で繊細な濃淡を反映して浸透されま
  すが、サトイモの葉に乗った水滴は、その状況により適当な大きさになり球状で移動します。
   ですから滑らかな声でハッキリと囁くことは難しいことです。
  常に、一語ずつ、断続された水滴・重い言葉を吐き出す毎に、想像以上にエネルギーを消費する
  のです。

   Bさんが逝去された後、1月に失語症の会は事務局長のCさんが会長補佐という名称で会の業
  務を行い、実質的に会長になってから私みればずいぶん変わりました。
   例会では、Cさんが事務連絡・近況報告の司会等殆ど会の運営をやることになりました。
   Cさんの発言量がやけに増えました。
   失語症の集まりと言っても日常会話には何とか耐える程度の方と全く問題のない方が半数います
  から、失語症の会であることを忘れたかのように配慮がなくなり、失語症者はい難くなったことは確か
  でした。
    (申し訳ありません詳細は割愛します)

   毎回4月の例会はテニス連盟の大会と重なるので、私は出席しておりませんので、役員の選任の
  過程については承知しておりませんが、4月には役員の改選により会長に就任しましたことを会報で
  知りました。
   恐らく、私は、入会以来、在住でないし、Bさんの客分としての扱いなので会費は同じでも組織
  的には何の役についていませんでしたので、それはそれで受け入れていましたので一切触れないで
  いました。しかし、今回は気になっていました。

   会の要(かなめ)のBさんを失った会は会長補佐という名称で会の業務を行う間に当然組織自体
  変わらなければならない筈でした。
   矢張り、会長代行の流れが一度起こると定着の方向を変えることは難しかったようです。
   そのうえ、新しい会員が3人加入しましたので、元に戻ることはあり得ない状態が定着しておりま
  した。

   言うまでもなくどの組織でも事務機能は最も重要なことです。特に失語症のように事務能力に障
  害を受けているところでは会の命運を左右します。
   勿論、Cさんの実績を疑う方はおられないでしょう。特に県失語連の関係者は、総会の議長を務
  め県失語連の行事の深く関わっておられるので、影響は大きいでしょう。
   Bさんの存命中はそれぞれの存在感が発展的に共存でき得たのは明らかな事ですから、当然、新
  しい体制に移行する必要があったことは皆さん認識しておられると思います。
   しかし、それにも拘らず役員選出の際に触れずに流れを受け入れた事実があり、それが会員相互
  の立脚点の相違の現実だと理解しております。

   10名程度の少ない会員数ですが、私の印象深い方々がおられます。
   
特に、もと家庭科の教員であったと聞いていますが、その女性の会員Fさんは、肢体不自由で2級の
  手帳を受けておりますので、杖を使用しており歩行等行動が制約されているようですが、毎回の近況
  報告では旅行のお話が多い様でした。
   趣味が広く、また、過去からの交際範囲は障害後にも支えになっている様子で話題が失語症者
  以外の方に亘る事があったと思います。しかし、そのお話の背景には、失語症のご自分が電話等で
  の遣り取りの戸惑い等の思いが感じられました。
   また、パソコンには、恐らく以前の職業との関係が深いと思いますが、たいへん興味をお持ちでしたが、
  障害により指の使用が不便になりご苦労されておられとのことでした。
   そして、Dさんの発表には、Dさんが発言に詰まるときにはDさんのノートの行を廻りホローされておら
  れました。私は女性の細やかな心配りに参加当時は特に感動を覚えました。
   また、大手の不動産会社の勤務されているGさんは、絵画・彫刻等に造詣が深い方の様で近況
  報告の内容は美術館に関するものが多く、また、ご自分の会社・家族等の様子を含めて極めて几帳
  面にお話していました。
   私は失語症者の職場復帰と継続にとって貴重な存在として、常に、伺いながら心の中でエールを
  送っておりました。
   Gさんの発言は実直な人柄をそのまま表現していますが、失語症の1つの特徴で喋る言葉に抑揚が
  平坦で各単語の切れ目がハッキリしない点があります。しかし、少し聞く方が協力するとよく分かります。
   この方は年齢が若い(40年代後半?)こともあると思いますが意欲的に取り組んでおられましたが、
  お仕事で恐らく時間に制約があると想像しておりました。

   この二方の近況報告はこの会でも常に私は注目し、またそれによっていろいろ勉強になりました。
   失語症者は内在する意欲・生命感が蠢動していても、その発露は受動的であり、大勢に合わせる
  ことが、切ない宿命です。発言は言うまでもないことですが、すべての行動においても、それを発想か
  ら行動までに
一瞬の間があります。
   それを乗り越えて進むためには想像以上のエネルギーと自覚が避けて通れません。沈黙と体制化
  は当然の帰結になります。


   従って、私は、名目だけでも会長は失語症者であってもらいたいという要望をもっていました。
  せめても例会の近況報告の司会はその失語症の代表が集約して頂きたい
と思っていましたが、
  そんな希望は全く現状には相容れないものでした。
   その背景には、失語症友の会等へのSTの参加に対する存在意義についての問題提起に対応し
  なければならない現実を看過している関係者への警告でもあると思っています。

   そんな中で最も気にしていたDさんが8月の例会を欠席しました。矢張りなーと思いました。昨年と
  は体質のあまりの様変わりに私は中座して帰りました。
   そして、ファックスによる9月の例会の通知の中でDさんの退会を知りました。予想していましたが、
  出来ればDさんの復帰と慰留、さらに万に1も可能性がないことは承知していましたが、会の再構築
  を祈りつつEさんに電話しました。
   Eさんは、心配していろいろ努力して下さいましたが、既には方向の定まって流れはどうしようもなか
  ったようです。
   私はDさんに電話をしました。元々、会話が不十分な二人ですから、細かい点には触れませんが、
  言葉の間、詰り具合、日頃の生活から会話の内容は良く分かります。
   私が慰留を勧めると
   「私はB氏が死んだときから辞める気で居たんだよ」
   さらに、失語症の会の必要に触れると、当然、その意義を認識していることは分かっていても、
   「私には関係ないから」
   と言う以外自分の言い分を表現する適当なセンテンスしかない不器用な壁を私は自分の事として
  理解していました。私は電話の前の彼の表情が見えていました。

       失語症者はひたむきと言われます

     それは失語症にとって、Dさん、Fさん、Gさん、もちろん私も、生きるために必要な選択肢が
      “ひたむき” な対応だと思っております。

   「他の失語症の会に行かないじゃ、どこかの会に入るの」
   「うちの近くに障害者の作業所あるんだ。そこでいろいろやることがあるからね。そこへ行くと一日
  百円貰えるだんよ。」
   「そう、よかたね、頑張ってね。そのうちお宅に伺いますよ」
   「どうぞ、来て下さい。」
   「私は横浜から行きますけど、あなたのところは何線に乗ればよかったんですかね」
   「うむ、…東横線かな。」
   「それは違いでしょう、それは私の乗る線ですよ。」
   「おーい、あの乗ってる電車は何線かな。」
   「××線でしょう!。」
   「××線だってよ。」電話の横からの奥さんの声に鸚鵡返しに返事が返ってきました。
   私は電話しなからDさんの何時と変わらない平静な様子にやはり何か割り切ったゆとりを感じてい
  ました。つまり、コミュニケイションを言語のみに依存するのではなく、新しい作業に導入する
  望をお持ちになったという感じでした。
   Dさんの影が私の前でいっそう大きくなりました

   
徒労に終わる事は分かっていましたが、私はDさんの復活をお願いする為に例会に参加しました。
   それは私の決別の表現でもあったのです。結果は予想通りでした。
  
   社会教育や地域活動で使命感を強調する人が多いのですが、実際は使命感では維持できない
  分野であると経験的に理解しております。
   趣味や道楽と言うか、金銭に換算できない思い入れによって支えている分野には、その人なりの意
  欲と努力の積み上げがあります。場合によっては偏見と独断といわれるのめり込みが必要です。それ
  よって改革が進められ推進されて来たことは歴史の事実であります。しかし、そう言う人はそれなりの
  能力があり実績があるので妥協と改革には難しい障碍になる可能性の存在も又真です。
  そう言う現実に対処するためには、退嬰的手法から脱却し

  ”柔軟な(adaptable)価値観がソフトな土壌を培う”、ことも歴史に学ぶ人間の智慧と考えています

   確かに県失語連等の活動は発展したと思いますが、一人の仲間を失った意味はそれ以上に重い、
   …と思うんです。
   それと共に、平面的な”ことばのつどい”の限界を示唆している問題と考えています。 
   そして、Dさんとは何時までも仲間として協力して行きたいと思っています。

     一将功なりて万骨枯れ…にならないことを祈りながら…
                                           
     なお、今後.「認知症」について考えて行きたいと思っています。



05.12.10
 日時 : 2006年2月7日 5:23

 私の所にカーボンコピーで7名の宛先で次のようなのメールが来ました。

件名 : ご挨拶

こんにちは、だいぶご無沙汰してしまいましたが、お元気でしょうか。
この度、東京大学において博士号を取得いたしました。
聴き取りをさせていただいてから、本当に長い年月がたってしまい、申し訳ありませんでしたが、やっと書きおわすことが出来て、ほっとしております。
聞かせていただいたお話は、本当に貴重で、多くの箇所で引用させていただきました。ご協力に、改めて、御礼申し上げます。

△△様のお計らいで、論文を片マヒ自立研究会で回覧していただけるとのこと、嬉しくもあり、少し怖い思いもあります。
文章もこなれておらず、皆様から教えていただいた論点の、一部しか提示できなかったと思いますが、今後も更に考えていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。感想などお聞かせねがえれば、存外の喜びです。

それでは、日本も寒いと思いますので、どうぞお体に気をつけてください。

○○ ○○子
コロンビア大学メイルマン・パブリックヘルス校
ソシオメディカル・サイエンス学部



 このメールは03.10.20.にこのページを発表してから2年3ヶ月あまりになります。
私はこのページの冒頭で当時の心境を単にそのまま書き並べたものでしたが、今になって現実の再現に戸惑っております。
 ”世の中には要らない人はないんですよ。”と自らに語りかける勇気は毛頭ありません。ただ、発症後の経過における心と体の変遷と変貌を振り返るよい機会であると思ってます。
 その内容は「失語症を考え・語る.その1・追加」に配置します。



                                                         06.6.30.
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