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四国旅行の朝日新聞掲載記事
高橋良三さん
 私が高橋さんに初めてお会いしたときには、何年前かははっきりとは覚えておりませんが、約4年前、片マヒ自立研究会という血管障害者の集いであったと思います。片マヒ自立研究会の集会は会員の話題のレベルが高く、況してや失語症の私は、失語症を考え・語る.その1・追加のなかで以前一部述べましたが、

 “昔から上手に表現できる賢明な人のことを「利口」な人と言うことでお分かりと思います。私のような失語症者は、適当な言葉が見付からず自己主張が不自由ですので、堂々と議論する人たちのなかでは「愚か者」の範疇に入ります。

 という状況にあり専ら聞き手に回りどなたとも個人的な接触は殆どありませんでした。
 当時、お会いしたときには取引先から推薦された商品で、性能が優れ手頃な価額のパソコン設置用ステレオスピーカーを紹介しておりました。
  “これは良いものだ”といって、注文の方法を聞いている方もおられました。

 何処となく、社会復帰しておられる方として逞しさがありその雰囲気に圧され私は距離を感じていました。
 更に、隣に座っていた方から発症後自転車で北海道から九州まで縦断した実績をお聞きし、そのバイタイリーに驚異を覚えました。

 親しく懇談したのは私の参加していた失語症の友の会の会長の葬儀の後、戸塚斎場から帰途で同じ研究会の会員に誘われ、軽い食事をしたときでした。
 戸塚方面は全く地理に不案内で、地図を頼りに電車とタクシーを乗り継いでやっとの思いで着いた時には喪主のご挨拶が始まる寸前でした。
 会葬に来られた大勢の弔問客には私の知り合いは殆どおりませんでしたので、帰りに同じ研究会の会員の会ったことは幸いでした。高橋さん、ピアスの笠井夫妻、事務局長江嵜夫妻、共々車で来ていましたので、私と他に東京に帰る人が夫々近くまで送って貰うことになり私は高橋さんの車に乗せて頂きました。…

 途中食事しました。余談ですが、日本特有の事かも知れませんが、私の親戚や身内が会う機会は慶事より法事が多いようで、そこでいろいろな本音の情報が伝わり、日頃の疎遠を回復する人間関係を繋ぐ糸の様な効果はどこも同様だと思われます。

 食事後行き先によって別れ、私は世田谷の用賀まで高橋さんの車で送って貰いました。

 高橋さんは歩く時に幾分体が傾斜しますが、運転は高速道路を通過し快適でした。発症以前は車に依存していたと言ってもいい位車好きで都内で車で行けない処にはバイクを使った私が発症後は一度もハンドルを握ることもなく廃車にした私には羨望より同じ仲間の回復に希望を見出しました。

 その後はピアスの障害者交流会でお会いしましたが、17年5月高橋さんが再発し言語障害の症状が出ており私に会いしたいという連絡を受け取り、17年6月1日、梶が谷の虎の門病院分院に高橋さんに会いに行きました。少し痩せていましたがお元気で迎えてくれました。今回構音障害を患い、その症状が明らかに会話に出ていましたが、本来の不屈の意欲と明るさで直面しておられ、その状況に対処している様子を語りそのリハビリのカリキュラムと資料を見せて呉れました。
 退院後はお仕事に復帰し忙しい日々と聞いていましたが、それぞれの活動分野が異なりメール、電話で必要な範囲での連絡はありましたがお会いして近状をお話したのはあまりありませんでした。

 発症前は饒舌と言われた私は失語症になり借りてきた猫の子のように寡黙になり、また障害の所為か彼も積極的に話題を展開することには慣れていないようで会話が弾むという訳にはいかなかったのです。文字通り不器用な舌足らずの会話に終始しました。

 しかし、私たちには障害を負っているものが心身に占めている重い緊張とそれまでの接触で培ってきた信頼がありましたから、自分善がりの判断かもしれませんが、阿吽の呼吸といますか以心伝心といいますか、直接言葉によるコミュニケイション以外で交流をして来ました。勿論、必要によりメールで確認します。

 と言うことは、一般に言語障害者特に失語症者について記述してある文章を読む場合は実際その人やその情景に出会うと合う前に想像していたこととあまりにも異なることに意外な感じを受けることがあります。文章から受ける実像と現実は離れていることが意外と多いのです。(私も文章を書く時には時間をかけて単語を選び何回も修正を繰り返します。会話には必要な間が文章には必要ではありませんから、それが救いです。)

 高橋さんは拙宅に二度お出でになりました。風采も覇気も相変わらず健在でしたが、以前は杖を持っていませんでしたし、この間会ったときには私の気の所為か歩行が幾らか困難になっておられるという感じでした。

 私が伺ったところ今では怖くて車の運転は止めているとのことでした。

 その際、四国を歩いて廻る旅行の計画を話されました。“よければ一緒に行きますか”、と誘われました。勿論、私の同行が不可能なことはお互いよく承知してのことですから、私の気持ちを配慮しての外交辞令だと思い伺いました。

 私も主旨は異なりますが四国には興味があり、たまたまこの6月彼の計画の全く同じ経路、つまり、高松空港→道後温泉→足摺岬→桂浜→高知空港のコースを妻・息子・孫と旅行して来ました。それは金刀比羅宮の785段の階段を何処まで登れるか挑戦したいと常々考えていたからです。それをもって私の回復の目安にしたいと思っていたからです。

 私の手帳では「*脳梗塞による*言語障害」となっていますが、私に限らず一般的には肢体の障害を持っている人は多く、ない方が珍しいのではないでしょうか。私の場合は手帳の申請の際に杖を使用しなくても歩けるので申告しなかったのです。ですから、8年経っても未だ階段の昇り降りは不安定で(出来れば手摺を必要)す。また、常時右脚から腰にかけて痛みがあって長い距離の歩行は無理です。従って、有名な四国の金比羅山の階段を登ることは念願だったのです。

 さりとて私には登りきる自信はありませんでした。昔から途中までは籠があると聞いていましたが、障害を受けてから以前では全く気にならないほんの少しの動きでも大げさに感じる不自由な体の皮膚感覚としては、籠から伝わる担ぐ人の生々しい肉感を受け容れることはできなかったのです。

 従って、登りは途中まではタクシーを使用しました。当時3歳(現在4歳)の孫はさっさと先に登り私に“ガンバレ、ガンバレ、おじいちゃま!!”と声をかけます。それに励まされ杖に縋ってやっと本宮にお参りできました。
 

   だいじょうぶなの!   ガンバレ、ガンバレ,おじいちゃま!        ご本宮にて

 

 ですから、後は栗林公園、道後温泉、松山城、竜串、足摺岬、四万十川、桂浜は観光としてはよい所でしたが私の目的を達した後ですから家族に合わせていきました。

 しかし、
                
あの距離を歩くということは私には考えられない偉業です。
                   高橋さんの直向きな執念に命の尊さを感じます。


 その後、7月19日、連絡があり、旅行の写真とコメントが送られてきました。
          
 
 更に、9月6日、四国旅行の計画とコメントが送られてきました。

          

           

 それには、私は書類等の整理能力が全くなく、いつもその都度妻に聞く事が半ば習慣化していますので、高橋さんとの交わりが実際のところ具体的な資料がないので確認のため送って頂きたい旨お願いしてありましたのでその回答も、

 「   荒井様、

  ご無沙汰致しております。
 やっと決心して出発します。旅の名刺代わりに作りました。
 13日に東京を発ち、京都に1泊してから14日高松に入ります。
 16日から歩き始めます。

   高橋良三
                                 」

  として添えてありました。

                                                07.9.12.




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